例えば絵や写真なら、
真ん中(付近)に大きくあるものが中心で、その他の小さいものが脇である。
配役表も同じだ。
最初に大きく出る人々が主役で、その他に小さく出る人々が脇役だ。
物事には真ん中と脇がある。
ところがストーリーは違う。
勿論真ん中と脇はある。
しかしそれが、「変化する」からストーリーなのだ。
逆に、「変化する」から、捉えにくい。
捉えにくいということは、手術台の上に乗せて分解出来ない。
そこが面白さで、難しいところなのだ。
ストーリーの真ん中と脇って?
ストーリーは、全く異なる三つのフェイズで、
変化をつけていく。
一幕、二幕、三幕である。
(その切れ目が、第一ターニングポイント、第二ターニングポイントという、
ストーリーの転換点である)
一幕での真ん中と脇は?
真ん中は、事件。
脇は、伏線や状況全体。
二幕での真ん中と脇は?
真ん中は、主人公のメインプロット。
脇は、サブプロット。
三幕での真ん中と脇は?
真ん中は、テーマの暗示。
脇は、サブテーマの暗示。
僕はこのように考えるといいと思う。
ストーリーそのものの真ん中、
という静的な考えに落としこまなければならないとき、
(たとえば予告編、企画書、一言でいうとき)
一幕、二幕、三幕の、
それぞれの真ん中を言う可能性がある。
一幕を選べば、「とんでもない事件に巻き込まれた!?」がメインになる。
二幕を選べば、「主人公がこんなことやあんなことをする!」がメインになる。
三幕を選べば、「こんなテーマの作品」になる。
僕は、名作とは、このどれもが優れているものだと思う。
だから、実はどれをとっても真ん中に見える。
例えば、ロッキー。
「芽の出ないボクサーが、偶然世界戦に指名される話。」
「朝卵を飲んで走り出し、階段を上って朝日を見る場面。」
「俺はまだ何者にもなっていない、だから俺を証明する話。」
僕は、このどれもが、ロッキーという話の真ん中を示していると思う。
当然、エイドリアンのことやポーリーの肉屋のことやミッキーのことは、
脇になるだろう。
それらが揃ってはじめてロッキーというお話になる。
僕は、これを抽出することはネタバレに該当しないと考える。
どんな話だい?と聞いたときに、
一幕や二幕の真ん中のことを話しながら、
三幕の真ん中のことについて話せる人が、
映画的物語のことを、よく分かっている人だと思う。
うまく具体的ディテールをぼかせば、
それはネタバレに該当しないと考える。
あるいは、二つを組み合わせても真ん中を表現したことになる。
事件のヘンテコさと主人公がどう四苦八苦するかを示したり、
主人公が四苦八苦しながら実はこういうテーマなんだと示したり、
こういう事件が起こってこういうテーマなんだと示したり。
(多分最後のパターンがネタバレと誤解されやすい)
昨日ツタヤでレンタルを探しているときに、
ツタヤラジオ的なものが店内で流れていて、
ロマンポランスキーの映画の紹介をしていたのだが、
なんとかサスペンスのジャンルで、
恐怖度は○○に匹敵して、
ドラマは○○に匹敵する、
幻の作品を復刻、なんて言っていた。
馬鹿かと思った。
ストーリーの真芯に全く触れていないからである。
具体的な核心に触れるのがネタバレだ。それはいかん。
だが、ストーリーの真ん中に触らないで、
外枠だけ示されたって、
それが見る価値があるかどうか判断出来ないではないか。
ツタヤは、早晩つぶれるような気がする。
自分のところの商品を、そういう扱い方しかしていない。
自分のところの商品を、深く理解していないからである。
最近の映画の予告や宣伝部も、ヤバい匂いがしている。
ストーリーの真ん中はどこにあるのか。
一幕、二幕、三幕、それぞれで変化するから、
ストーリーは捉えがたく、ウナギのようなのだ。
しかし、「真ん中が変化していく」(しかもその規則がある)と思うと、
それは捉えやすくなる。
自分が書くときにも整理しやすいし、
他人に説明するときにも整理しやすくなると思う。
これに倣うと、「てんぐ探偵」は、
一幕なら、人の心が病むのは、新しい妖怪「心の闇」のせいなのだ!、
二幕なら、人の心をほぐすことで「心の闇」を追い払う新しいドラマ、
三幕なら、闇は炎で照らすことが出来る、
になると思う。
物語後半になって、ようやくこのことが見えてきたよ。
人はまとめに入りたがるのかね。
2015年05月21日
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