2015年05月27日

何故実写化は、うまくいかないのか

前記事のつづき。
何度も書いてきた話題ではあるけど。

プロデューサーサイドと、脚本監督サイドの不一致が、
最大の原因だと考えられる。


極論すれば、プロデューサーは、
作品がどうなったっていいのだ。
ある金を預かり、
ある芸能事務所を満足させ(役を与え)、
ある子飼いの人々に仕事を回し、
トータルで利益を出せれば、
作品がどうなったっていいんだよ。

(ダメなプロデューサーを想定しています。
僕はもっと志のあるプロデューサーがどこかにいると信じて、
その人と組むことを願っています)

だって会社の存在目的が、借金の返済であり、
いい作品を作って世の中を良くする、
じゃないんだもん。
利潤だけの追及が目的な限り、手段は何でも良くなるんだもの。

あるキャストを集めさえすれば、
一定の客は確保できるから、
それを集めて出来る原作を、
あとは探すだけでいいんだもの。

そのキャストが最も輝く「演目」であれば、
それはなんだっていい。
それが儲かるようにするためなら、
演目の改変なんていくらでもしていい。
文句を言うなら演目自体をかえちまえばいい。
原作の魂?
そんなの知らん。難しいこともわからん。
俺の言うことを聞く脚本監督を呼んでくれば、
上手いことやってくれるだろ。
原作サイド?金で黙らせりゃいいじゃん。
むしろ、フェアを一緒にやって一儲けしようぜ。


こうやって、原作を理解する脚本監督は呼ばれず、
プロデューサーの御用聞きが呼ばれる。
こうやって、原作の実写化は失敗する。

モチーフとテーマの関係を、
きちんと考えることは、難しい。
それを思いつくには才能がいる。
それを見極めることも難しい。
だから、難しいことよりも、簡単で儲かることを選ぶ。

そうやって、借金を返せる人だけが生き残る。
そうやって、魂の入っていない、ガワだけの実写化が、
儲け続ける。



あるテーマを表現するために、
これまでと違う意外なモチーフを選び、
集合的無意識が持っている、まだ言葉になっていない問題を言葉にして、
世の中の価値観を変えるだけのカタルシスを作る、
という、
我々脚本家、監督、原作者と、
金の管理をする人の、目的が全然違うのだ。

だから、失敗するのだ。
興行的な成功かどうかなら、借金を返せば成功だ。
しかし内容的に成功したものは、片手ぐらいだろう。

これは、オリジナル脚本での成功率より明らかに低い。
しかし、借金返済成功率が高いからこそ、
ビジネスとしては成功なのだろう。

目的の差を浮き彫りにするには、
何を失敗と考えるかを考えればわかる。
脚本家、監督は、詰まらないものを作ってしまうこと、原作と違う本質を作ってしまうこと。
プロデューサーは、借金を返せないことだ。


ビジネスは何のためにあるのだろう。
やっぱわかんねえや。


いい作品が売れて、世の中がよく変わって行く循環を、
僕は取り戻したい。
それには、優秀なプロデューサーが不可欠だ。
posted by おおおかとしひこ at 13:42| Comment(4) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
面白くないけど商業的にはヒットしてお金になった作品。
お金になるということは誰かの役に立っている。
(自分の中ではビジネスというものは人の役に立って対価を貰うことという定義です)

じゃあその作品は一体どういう人にどんな価値を提供したんでしょうか?


自分にはそれがよく分かりません
Posted by KYKY at 2015年05月27日 23:30
KYKY様コメントありがとうございます。

「ふかふかの椅子で大画面と大音響を楽しむこと」
「好きな俳優を見ること」
「金(や手間)のかかったものを見ること」
のみっつです。

色々な人の感想を見る限り、ほとんどこれしか言いません。
お話が面白かったかどうかについて、書く文章力がないのか、考える脳がないのか、表現する気がないかは、
わかりません。
そしてこのままでは、大変危険な気がしています。

話を語るためのボキャブラリー(考え方)が、
日本語には貧弱なのではないかと思って、こうして書いている次第。


僕はね、詰まらない映画には「金返せ!」って怒る権利があっていいと思うんです。
そうじゃないと、「面白い話」に金払えないもの。
昔一度だけ「ゲド戦記」でやったら、彼女に凄い怒られたっけ。
Posted by 大岡俊彦 at 2015年05月28日 00:26
コメント有り難う御座います。

一つ目と二つ目はともかく三つ目に関しては「金さえかかってれば中身はどうでもええんかい!」と感じてしまいました。そういう考えでお金を払う人も存在するんですね・・・というよりよくよく考え直してみると案外そういう人も多いかも・・・。


また新しい発見ができました。ご回答ありがとうございました。
Posted by KYKY at 2015年05月28日 00:58
フェスティンガーの認知的不協和理論を知っている人は少ないかも知れません。
「人は失敗を認めたくないので、理屈で偽の正当化をする」という人間の性質についての理論です。

詰まらない映画を見たとき、人は1800円と時間の損失について、
失敗したことを認めたくなくて、
「映画館の空間を味わえた」「俳優を見たかっただけ」「金かかった画面(ロケーション、セット、CG、エキストラの多さなど)は映画ならでは」
と、うそぶくのです。
「あの映画を選択した自分の目のなさ」を認めたくないからです。

そういう人は、そのような人間の性質が、
自分に起こっていることを知るべきです。

僕は名作と同じ数だけ糞映画を見て、名作の価値を知るべきだと思っています。


あと、本文に書き忘れたのですが、
この現象を「公共工事」とネットで言っている人がいて、感心した記憶があります。
金を関係各所で回す為だけの仕事。
Posted by 大岡俊彦 at 2015年05月28日 01:25
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