部分を集めれば全体が出来る。
これは科学の基礎的考え方だ。
パーツを組み合わせて作るメカ、建築、ロボット、
手術、オブジェクト指向プログラミング、プラモデルなどは、
この考え方を基礎に発展している。
しかし、物語だけは違うと思う。
それは人間の認識にも関係していると思う。
「これは全体としてどういうことか」を、
部分にとらわれず、人はものを見ようとする性質があると思う。
例えば枝野発言「ただちに影響はない」は、
その部分を見ればその通りだが、
全体の文脈としては、
「何が起こるか分からないが、
パニックになるな。短期的には目に見える影響がないだけで、
長期的には何が起こるか現代の科学では分からない。
チェルノブイリでは完全隔離策を取ったが、
津波で壊滅したものを隔離するのは困難である。
長期的影響を考え、短期的なパニックに陥らず、
長期的に避難せよ。また、国は責任を取れない」
ということを言っていた筈だ。
馬鹿は言葉通りに従わせ、
冷静で賢い人には警告となっている、
極めて短くて強い、時代に残る名コピーだ。
人は全体を見る。
部分も見るが、大きな全体を見る。
その時に、何が結局行われたかが、
その物語の意味なのだ。
ドラゴンボールが我々に与えた意味は?
インフレバトルの面白さ?
最後に残ったのは、
「冒険へのポジティブなワクワク」ではないかと僕は思っている。
それはやはり、友情努力勝利というジャンプのテーマと、
合っていたのではないかと考える。
(テーマとモチーフの話でいえば、
友情努力勝利をモチーフにするから、ワンピースは好きではない。
友情努力勝利は、テーマにするべきなのだ。
モチーフでありテーマに混同しやすいから、皆間違う。
テニスの王子様や弱虫ペダルは、モチーフにしてテーマにしてない、
ハリボテの気がしてしまうので、まだちゃんと読めていない)
女は細かいことを覚えていて、
色々なことを思い出しては怒る。
しかし部分の集合を全体だと思うから怒る。
全体としてはお前は愛されている、と納得させれば、
部分の集合はどうでもよくなるはずだ。
物語を作っているとき、
部分の展開や理屈や、色々な人物の矛盾する動機や、
絵にうまく落とし込むことや、
モチーフにテーマを埋め込むことや、
いいモチーフを思いつかないなど、
細々としたものに心とらわれて、
全体としてはどういうことか、を、
とらえられていないことが多い。
夢中で書いてるときも、悩んで進まないときもだ。
「Aな主人公が、Dして解決する」という表記法は、
全体としてはどういうことか、を考えるきっかけをくれる。
一服するときに、これを考えることで整理することが出来る。
ということで、ピクサーの、
ストーリー工学的な、
部分を積算すれば全体になる、
というやり方が、どうも好きになれない。
部分と全体の関係が歪んでいる気がする。
多人数で分担するから、量産は出来るのかも知れないけど。
部分に全体の目端が効いている作品が、
よい作品だと僕は思っている。
さて、あなたの作品は、
全体としてはどういうことか。
それを常に把握するべきだ。
2015年05月29日
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