2015年05月29日

全体は、部分の集合ではない

部分を集めれば全体が出来る。
これは科学の基礎的考え方だ。
パーツを組み合わせて作るメカ、建築、ロボット、
手術、オブジェクト指向プログラミング、プラモデルなどは、
この考え方を基礎に発展している。

しかし、物語だけは違うと思う。


それは人間の認識にも関係していると思う。
「これは全体としてどういうことか」を、
部分にとらわれず、人はものを見ようとする性質があると思う。

例えば枝野発言「ただちに影響はない」は、
その部分を見ればその通りだが、
全体の文脈としては、
「何が起こるか分からないが、
パニックになるな。短期的には目に見える影響がないだけで、
長期的には何が起こるか現代の科学では分からない。
チェルノブイリでは完全隔離策を取ったが、
津波で壊滅したものを隔離するのは困難である。
長期的影響を考え、短期的なパニックに陥らず、
長期的に避難せよ。また、国は責任を取れない」
ということを言っていた筈だ。

馬鹿は言葉通りに従わせ、
冷静で賢い人には警告となっている、
極めて短くて強い、時代に残る名コピーだ。



人は全体を見る。
部分も見るが、大きな全体を見る。
その時に、何が結局行われたかが、
その物語の意味なのだ。

ドラゴンボールが我々に与えた意味は?
インフレバトルの面白さ?
最後に残ったのは、
「冒険へのポジティブなワクワク」ではないかと僕は思っている。
それはやはり、友情努力勝利というジャンプのテーマと、
合っていたのではないかと考える。
(テーマとモチーフの話でいえば、
友情努力勝利をモチーフにするから、ワンピースは好きではない。
友情努力勝利は、テーマにするべきなのだ。
モチーフでありテーマに混同しやすいから、皆間違う。
テニスの王子様や弱虫ペダルは、モチーフにしてテーマにしてない、
ハリボテの気がしてしまうので、まだちゃんと読めていない)


女は細かいことを覚えていて、
色々なことを思い出しては怒る。
しかし部分の集合を全体だと思うから怒る。
全体としてはお前は愛されている、と納得させれば、
部分の集合はどうでもよくなるはずだ。


物語を作っているとき、
部分の展開や理屈や、色々な人物の矛盾する動機や、
絵にうまく落とし込むことや、
モチーフにテーマを埋め込むことや、
いいモチーフを思いつかないなど、
細々としたものに心とらわれて、
全体としてはどういうことか、を、
とらえられていないことが多い。
夢中で書いてるときも、悩んで進まないときもだ。

「Aな主人公が、Dして解決する」という表記法は、
全体としてはどういうことか、を考えるきっかけをくれる。
一服するときに、これを考えることで整理することが出来る。


ということで、ピクサーの、
ストーリー工学的な、
部分を積算すれば全体になる、
というやり方が、どうも好きになれない。
部分と全体の関係が歪んでいる気がする。
多人数で分担するから、量産は出来るのかも知れないけど。

部分に全体の目端が効いている作品が、
よい作品だと僕は思っている。


さて、あなたの作品は、
全体としてはどういうことか。

それを常に把握するべきだ。
posted by おおおかとしひこ at 05:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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