おそらく初心者が、
「狼に育てられた少年が、獣医になる」話を書け、
と言われたら、
つい次のような話を書いてしまうだろう。
山に赤ん坊が捨てられている。
狼がやってきて、頬を舐める。
泣く赤ん坊。
狼、木の実を持ってくる。食べられない赤ん坊。
母狼が乳を上げる。チュウチュウ吸う赤ん坊。
狼の子供たちに混じって、山のなかで走る、
成長した狼少年。
ある日、猟師に見つかる。
人間をはじめてみた少年。
少年、夜、山を降りて町へいく。
何もかも新しく、人をたくさん見る。
ヤンキーとかに捕まり、喧嘩になり、警察に保護される。
学者たちがやってきて、日本語を教え始める。
学校で勉強する少年。
狼たちがこっそり見に来ているが、
少年は人間社会に溶け込んでいる。
大人になった少年。
獣医として、犬を診ている。
さて、この話がちっとも面白くないのはなぜだろうか。
ドラマになってないのはなぜだろうか。
設定の羅列だからだ。
あらすじの一行を、具体的な設定に起こして、
その設定を時系列に並べたからだ。
何が起こったか、という事件の顛末を、
正確に5w1hで起こしたかも知れないが、
それは新聞記事であり、レポートであり、
ドラマではない。
レポートは引いた目で書く。
ドラマは主人公に感情移入するように書く。
ドラマとはなんだ。
コンフリクトだ。
コンフリクトってなんだ。
他者と他者の間にある、もめごとのことだ。
僕の考えた話では、
狼少年をいじめる普通の子がいた。
そこで狼少年は自分を否定し、人間になろうとした。
他者とのもめごとがあり、それに対して何かを決断実行し、
状況が変化し、
またもめごと(別のものではなく、前と関連しているもの)があり…
の連鎖が、
「まるで主人公が体験するのと同じように体験するもの」が、
ドラマである。
狼に育てられたパートは、彼の体験は関係ないので、
省略してもいいのだ。
彼の体験、つまり、「人間社会への適応」を、
レポートではなく、
観客が体験できるように書くのがドラマだ。
これは、あらすじが「狼に育てられた少年が、獣医になる」だからだ。
「狼に育てられる」なら前半部で終わりでもいい。
育てられた、は過去形で、
なる、は現在形だ。
ドラマは現在形で書く。
つまり、なるところ、なるまでをメインに描く。
適応への拒否や、諦めや、悲しみや、そうじゃないという思いを、
彼と同調できるように書くのがドラマだ。
彼の感情と同調することなく、
引いた目からあったことを書くだけでは、
レポート(観察記録)にすぎないのだ。
正確にいえば、
最初は観察記録だったはずが、
いつの間にか彼の感情と同化してなければ、
ドラマではないのである。
設定の羅列、と揶揄される所以は、
彼の感情が書かれていないことだ。
個々の場面の感情のことではない。
はじまりから終わりに一気通貫する、
感情の流れのことだ。
その起伏が、色々な方向に、流れとしてふれまくるのを、
ドラマの起伏という。
その為には、コンフリクトが必要だ。
つまり、ドラマとは、
コンフリクトによって起こる一連の騒動を描くことで、
主人公と観客の感情が同調してふれまくり、
最初は観察記録だったはずが、
いつの間にかその物語と一体化しているもの、
を言う。
下手な例に出したものは、全く一体化できず、
(狼に育てられたところまでは良かったが)
獣医になるところに全く一体化できない。
客観的レポートにすぎず、
一体化がない。
だから下手だ。
ちなみに、
今のCMの企画レベルは落ちていて、
この下手な例と同じぐらいだ。
ドラマを書ける人が本当に減っている。
ドラマを書く力は、ある種の特殊技能だと痛感する。
2015年05月30日
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