2015年05月30日

「狼少年」解説の続き

おそらく初心者が、
「狼に育てられた少年が、獣医になる」話を書け、
と言われたら、
つい次のような話を書いてしまうだろう。


山に赤ん坊が捨てられている。
狼がやってきて、頬を舐める。
泣く赤ん坊。
狼、木の実を持ってくる。食べられない赤ん坊。
母狼が乳を上げる。チュウチュウ吸う赤ん坊。

狼の子供たちに混じって、山のなかで走る、
成長した狼少年。
ある日、猟師に見つかる。
人間をはじめてみた少年。

少年、夜、山を降りて町へいく。
何もかも新しく、人をたくさん見る。

ヤンキーとかに捕まり、喧嘩になり、警察に保護される。

学者たちがやってきて、日本語を教え始める。

学校で勉強する少年。
狼たちがこっそり見に来ているが、
少年は人間社会に溶け込んでいる。

大人になった少年。
獣医として、犬を診ている。



さて、この話がちっとも面白くないのはなぜだろうか。
ドラマになってないのはなぜだろうか。

設定の羅列だからだ。


あらすじの一行を、具体的な設定に起こして、
その設定を時系列に並べたからだ。

何が起こったか、という事件の顛末を、
正確に5w1hで起こしたかも知れないが、
それは新聞記事であり、レポートであり、
ドラマではない。

レポートは引いた目で書く。
ドラマは主人公に感情移入するように書く。

ドラマとはなんだ。
コンフリクトだ。
コンフリクトってなんだ。
他者と他者の間にある、もめごとのことだ。

僕の考えた話では、
狼少年をいじめる普通の子がいた。
そこで狼少年は自分を否定し、人間になろうとした。

他者とのもめごとがあり、それに対して何かを決断実行し、
状況が変化し、
またもめごと(別のものではなく、前と関連しているもの)があり…
の連鎖が、
「まるで主人公が体験するのと同じように体験するもの」が、
ドラマである。


狼に育てられたパートは、彼の体験は関係ないので、
省略してもいいのだ。
彼の体験、つまり、「人間社会への適応」を、
レポートではなく、
観客が体験できるように書くのがドラマだ。

これは、あらすじが「狼に育てられた少年が、獣医になる」だからだ。
「狼に育てられる」なら前半部で終わりでもいい。
育てられた、は過去形で、
なる、は現在形だ。
ドラマは現在形で書く。
つまり、なるところ、なるまでをメインに描く。

適応への拒否や、諦めや、悲しみや、そうじゃないという思いを、
彼と同調できるように書くのがドラマだ。

彼の感情と同調することなく、
引いた目からあったことを書くだけでは、
レポート(観察記録)にすぎないのだ。

正確にいえば、
最初は観察記録だったはずが、
いつの間にか彼の感情と同化してなければ、
ドラマではないのである。


設定の羅列、と揶揄される所以は、
彼の感情が書かれていないことだ。
個々の場面の感情のことではない。
はじまりから終わりに一気通貫する、
感情の流れのことだ。


その起伏が、色々な方向に、流れとしてふれまくるのを、
ドラマの起伏という。

その為には、コンフリクトが必要だ。
つまり、ドラマとは、
コンフリクトによって起こる一連の騒動を描くことで、
主人公と観客の感情が同調してふれまくり、
最初は観察記録だったはずが、
いつの間にかその物語と一体化しているもの、
を言う。

下手な例に出したものは、全く一体化できず、
(狼に育てられたところまでは良かったが)
獣医になるところに全く一体化できない。
客観的レポートにすぎず、
一体化がない。
だから下手だ。


ちなみに、
今のCMの企画レベルは落ちていて、
この下手な例と同じぐらいだ。
ドラマを書ける人が本当に減っている。

ドラマを書く力は、ある種の特殊技能だと痛感する。
posted by おおおかとしひこ at 14:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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