2015年06月01日

結論は、既に出ている

論文を書くとき、講演をするとき、
長めの話をするとき、
普通結論から先に言う。

今から○○が結論である、という話をします。

と前置きして話し始める。


物語は違うのだろうか。


結論を出すのはネタバレである。
最初にそれを言ってしまってはだめだ。
(「いけちゃんとぼく」の予告およびOPでのネタバレは、
監督としていまだに反対だ。プロデューサーの権限だった)

しかし、
優秀な物語ほど、冒頭に実は結論が出ている。
「主人公の逆境」という形でである。

主人公の逆境は、必ず最後に覆される。
それが物語だ。
だから、主人公の逆境の逆が、実は結論(≒テーマ)だ。

(「いけちゃんとぼく」の逆境とは、
「世界は僕と関係なく進む」という無力感だ。
だから結論は、「世界と噛み合うとき、人は大人になる」である。
これは溺れるシーンからはじめる、第一稿ではきちんと守られていたが、
それが覆されて話がややこしくなってしまった)



また、必ずしもではないが、
優秀な物語ほど、冒頭をイメージからはじめる傾向にあるらしい。
トップカットが、もしテーマを暗示するビジュアルであれば、
それはとても優秀なオープニングの可能性がある。



ところが。

初心者はこんなことを考えずに、
思いついたから、という理由で物語を書きはじめる。

だから、序盤から中盤は勢いで書けるが、
中盤から終盤の寄せが出来ない。
結論が唐突に現れるからである。

あるいは、唐突な結論が駄目だと本能的に分かるのか、
濁った結論にして、
色々誤魔化そうとする。
二義性、三義性のある、重なりあった結論を書くのもその傍証だ。
(例えば僕の嫌いな「インセプション」の二義性あるエンドは、
冒頭にその結論を出していないことから起こる、
脚本上のミスだと思う)

明快な、スカッとした、
しかもありがちでない、
おもしろい、
真のきちんとした結論のある物語は、
冒頭に結論が暗示されているのである。


これは物語以外の「人の話」と同じ構造を持つ、
ということにすぎない。

はじめに結論を言い、
それをひもとき、
最後に結論を言う、
という、ごくごく基本型を守れ、
ということなのだ。

それが分かりやすく明快であることだ。


ただし物語とは明示でなく暗示であるから、
暗示せよ、というだけにすぎないのだ。



唐突な結論になる、とか、
結論をうまくつけられず迷った末、
二義性三義性のある、曖昧な結論で結論づけた気になる、
などの症状は、
初心者にありがちで、ベテランもついついやってしまうことでもある。

それは、冒頭に結論がないから起こるのである。

結論を書きながら見つける?
そんなこと言ってるから、いつまでも詰まらない話しか書けないのだよ。


もし書きながら結論が見つかったら、
今までの原稿を全部捨てよう。
そして白紙の第一行目に、
「これは○○という結論の話である」と書こう。

そして、トップカットから書き始めよう。
それをビジュアルで暗示するトップカットだ。
主人公は逆境にいる。
結論から最も遠い所にだ。
そこから結論への長い旅が、物語だ。

最後に最初の一行目を消してしまおう。
それで完成のはずである。



結論は、既に出ている。
だから人は、ひとつのまとまりのある話を話せて、
ひとつのまとまりのある話を理解できるのである。

それ以外のものを、まとまりのない話という。
結論から話していないのなら、
それはオカンの話と同じである。
posted by おおおかとしひこ at 13:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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