論文を書くとき、講演をするとき、
長めの話をするとき、
普通結論から先に言う。
今から○○が結論である、という話をします。
と前置きして話し始める。
物語は違うのだろうか。
結論を出すのはネタバレである。
最初にそれを言ってしまってはだめだ。
(「いけちゃんとぼく」の予告およびOPでのネタバレは、
監督としていまだに反対だ。プロデューサーの権限だった)
しかし、
優秀な物語ほど、冒頭に実は結論が出ている。
「主人公の逆境」という形でである。
主人公の逆境は、必ず最後に覆される。
それが物語だ。
だから、主人公の逆境の逆が、実は結論(≒テーマ)だ。
(「いけちゃんとぼく」の逆境とは、
「世界は僕と関係なく進む」という無力感だ。
だから結論は、「世界と噛み合うとき、人は大人になる」である。
これは溺れるシーンからはじめる、第一稿ではきちんと守られていたが、
それが覆されて話がややこしくなってしまった)
また、必ずしもではないが、
優秀な物語ほど、冒頭をイメージからはじめる傾向にあるらしい。
トップカットが、もしテーマを暗示するビジュアルであれば、
それはとても優秀なオープニングの可能性がある。
ところが。
初心者はこんなことを考えずに、
思いついたから、という理由で物語を書きはじめる。
だから、序盤から中盤は勢いで書けるが、
中盤から終盤の寄せが出来ない。
結論が唐突に現れるからである。
あるいは、唐突な結論が駄目だと本能的に分かるのか、
濁った結論にして、
色々誤魔化そうとする。
二義性、三義性のある、重なりあった結論を書くのもその傍証だ。
(例えば僕の嫌いな「インセプション」の二義性あるエンドは、
冒頭にその結論を出していないことから起こる、
脚本上のミスだと思う)
明快な、スカッとした、
しかもありがちでない、
おもしろい、
真のきちんとした結論のある物語は、
冒頭に結論が暗示されているのである。
これは物語以外の「人の話」と同じ構造を持つ、
ということにすぎない。
はじめに結論を言い、
それをひもとき、
最後に結論を言う、
という、ごくごく基本型を守れ、
ということなのだ。
それが分かりやすく明快であることだ。
ただし物語とは明示でなく暗示であるから、
暗示せよ、というだけにすぎないのだ。
唐突な結論になる、とか、
結論をうまくつけられず迷った末、
二義性三義性のある、曖昧な結論で結論づけた気になる、
などの症状は、
初心者にありがちで、ベテランもついついやってしまうことでもある。
それは、冒頭に結論がないから起こるのである。
結論を書きながら見つける?
そんなこと言ってるから、いつまでも詰まらない話しか書けないのだよ。
もし書きながら結論が見つかったら、
今までの原稿を全部捨てよう。
そして白紙の第一行目に、
「これは○○という結論の話である」と書こう。
そして、トップカットから書き始めよう。
それをビジュアルで暗示するトップカットだ。
主人公は逆境にいる。
結論から最も遠い所にだ。
そこから結論への長い旅が、物語だ。
最後に最初の一行目を消してしまおう。
それで完成のはずである。
結論は、既に出ている。
だから人は、ひとつのまとまりのある話を話せて、
ひとつのまとまりのある話を理解できるのである。
それ以外のものを、まとまりのない話という。
結論から話していないのなら、
それはオカンの話と同じである。
2015年06月01日
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