「この話を見終えて自分から切り離すとき、それにつけるラベル」
のことだと思う。
例えばドラマ風魔の小次郎なら、
殆どの人にとっては、
「最初安いイケメンショウだと思ってたら、
案外本気で作ってて、いつの間にか夢中になったドラマ」
だろうし、原作ファンにとっては、
「どうせろくなものになると思ってなかったが、
現代アレンジが効いていて、
それが凄く面白い、原作レイプとは全く逆の理想の実写化のひとつ」
だろうと思う。
見ている最中はそんなこと思わない。
ただ夢中なだけだ。
(夢中にならないもののほうが世の中には多いけど)
それが終わってしまったとき、
結論が訪れる。
つまり、見る人は「まとめに入る」のだ。
物語とは変化である。
第一印象とラストが違うものが物語である。
しかし、優秀な物語ほど結論は最初に出ている。
風魔の小次郎ならば、
小次郎の成長だ。
忍びとしては未熟な男が、新しい形の忍びの可能性を示す物語である。
だから最初は型破りの暴れもの(全然忍んでない)として、
小次郎は描かれる。
破天荒な物語として(予算の安さも含め)始まった物語は、
哀しみを含んだ暖かい風として終わる。
そのとき、我々は暗示された「小次郎の成長」を、
物語の結論としてラベルに書くのである。
勿論、演ずる村井の成長も目を見張る。
(実際、成長したのではなく、
ドラマでの表現に慣れてきただけではないか、
と監督としては思っているけど)
だからついつい、村井と小次郎を同一視してしまう。
それぐらい物語が優秀だったことにまるで気づくことはなく。
例えば村井でなかったとしても、
その役者が今の村井のように絶賛されたと思う。
演者の力も勿論あるけど、
台本の力というのはそういうものだ。
村井より絶賛されたかも知れないし、
村井よりは叩かれたかも知れない。
それはもう一度やってみないと比較出来ないが、
残念ながらそれはドラマや映画ではない習慣だ。
(演劇は、キャストを替えて再演とか、結構あるのにね)
勿論、
「麗羅と小次郎と仲良さそうな男子校ノリのイケメンショウ」
というラベルを貼る人もいるだろうし、
「悪役の激動のドラマ(壬生中心)」というラベルを貼る人もいるだろう。
それはある程度、見る人の自由だ。
しかし、書き手が結論を最初に決めていない物語は、
そこへ到達出来ない。
よれて詰まらないからである。
最初に結論を決め、
間に色々あって、
最初の結論にまとまった、
型として正しい話だけが、
その結論を得ることが出来る。
「この話が、我々にもたらした意味」である。
それが物語のテーマでもいいし、
もう少し広い何かでもいいと思う。
(詰まんないやつほど、キャストは良かったとか、
いいところを探しはじめる。それは「自分が見た話が糞だった」と認めるのが嫌な、
無意識の行動だ。認知的不協和の解消行動という)
そして、その結論が、いいものであればあるほど、
皆が共有し、影響を受ける。
つまり、世界を変えることが出来る。
あなたの話の結論は何か?
それが出来てないのに、書きはじめてはいけない。
短い話で練習せよ、というのは、
結論なき所から書きなぐって、書きながら落とし所を見つける練習にもなるが、
最初に結論を用意し、そこへ落としていく練習も可能だ。
どちらもやるべきだ。
2015年06月01日
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