2015年06月01日

結論とはなにか

「この話を見終えて自分から切り離すとき、それにつけるラベル」
のことだと思う。


例えばドラマ風魔の小次郎なら、
殆どの人にとっては、
「最初安いイケメンショウだと思ってたら、
案外本気で作ってて、いつの間にか夢中になったドラマ」
だろうし、原作ファンにとっては、
「どうせろくなものになると思ってなかったが、
現代アレンジが効いていて、
それが凄く面白い、原作レイプとは全く逆の理想の実写化のひとつ」
だろうと思う。


見ている最中はそんなこと思わない。
ただ夢中なだけだ。
(夢中にならないもののほうが世の中には多いけど)
それが終わってしまったとき、
結論が訪れる。
つまり、見る人は「まとめに入る」のだ。

物語とは変化である。
第一印象とラストが違うものが物語である。
しかし、優秀な物語ほど結論は最初に出ている。
風魔の小次郎ならば、
小次郎の成長だ。
忍びとしては未熟な男が、新しい形の忍びの可能性を示す物語である。
だから最初は型破りの暴れもの(全然忍んでない)として、
小次郎は描かれる。
破天荒な物語として(予算の安さも含め)始まった物語は、
哀しみを含んだ暖かい風として終わる。

そのとき、我々は暗示された「小次郎の成長」を、
物語の結論としてラベルに書くのである。

勿論、演ずる村井の成長も目を見張る。
(実際、成長したのではなく、
ドラマでの表現に慣れてきただけではないか、
と監督としては思っているけど)
だからついつい、村井と小次郎を同一視してしまう。
それぐらい物語が優秀だったことにまるで気づくことはなく。
例えば村井でなかったとしても、
その役者が今の村井のように絶賛されたと思う。
演者の力も勿論あるけど、
台本の力というのはそういうものだ。
村井より絶賛されたかも知れないし、
村井よりは叩かれたかも知れない。
それはもう一度やってみないと比較出来ないが、
残念ながらそれはドラマや映画ではない習慣だ。
(演劇は、キャストを替えて再演とか、結構あるのにね)


勿論、
「麗羅と小次郎と仲良さそうな男子校ノリのイケメンショウ」
というラベルを貼る人もいるだろうし、
「悪役の激動のドラマ(壬生中心)」というラベルを貼る人もいるだろう。
それはある程度、見る人の自由だ。


しかし、書き手が結論を最初に決めていない物語は、
そこへ到達出来ない。
よれて詰まらないからである。

最初に結論を決め、
間に色々あって、
最初の結論にまとまった、
型として正しい話だけが、
その結論を得ることが出来る。

「この話が、我々にもたらした意味」である。

それが物語のテーマでもいいし、
もう少し広い何かでもいいと思う。
(詰まんないやつほど、キャストは良かったとか、
いいところを探しはじめる。それは「自分が見た話が糞だった」と認めるのが嫌な、
無意識の行動だ。認知的不協和の解消行動という)



そして、その結論が、いいものであればあるほど、
皆が共有し、影響を受ける。
つまり、世界を変えることが出来る。


あなたの話の結論は何か?
それが出来てないのに、書きはじめてはいけない。

短い話で練習せよ、というのは、
結論なき所から書きなぐって、書きながら落とし所を見つける練習にもなるが、
最初に結論を用意し、そこへ落としていく練習も可能だ。

どちらもやるべきだ。
posted by おおおかとしひこ at 14:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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