一幕の問題または、二幕のお楽しみポイントで興味をひき、
三幕の結論で影響を与えること。
つまり、一幕と二幕はひきこみ、
三幕は主題。
一幕では、問題を示す。
解決されるべきセンタークエスチョン、すなわち外的問題、
または、主人公が内側に抱えた問題、すなわち内的問題、
どちらの問題で引きつけてもよい。
(両方でもいいが、外から見たときどっちかがメインのほうが普通)
「ジュラシック・パーク」は、
「現代に甦らせた恐竜の島に嵐が襲い、コントロール不能になった」
が外的問題として引きつける。
(主人公の内的問題は問題にされない。これはスピルバーグの初期の映画に顕著だ)
「ロッキー」は、
「どん底の主人公」という内的問題を抱えたボクサーが、
「世界戦のチャンスを得ること」という外的問題に出会う。
つまり、両方で引きつける珍しいパターンだ。
ドラマ「風魔の小次郎」は、
「学園抗争の裏には忍びが暗躍していた」というのが、
そもそもの外的問題だが、学園抗争が校内暴力や不良全盛期でない、
21世紀にはリアリティーがないので、
「困った姫を救う忍者がやって来た」ぐらいの緩い外的問題にしている。
(その裏には、生徒の無関心に心を痛める真面目な姫子の内的問題や、
忍び未満の小次郎の内的問題も潜めている)
一幕の問題で引きつけることも出来るし、
二幕のお楽しみポイントで引きつけることも出来る。
「ジュラシック・パーク」は、
「色んな恐竜たちからの脱出劇」
(スピルバーグは、デビュー「激突!」以来、
一貫して追われる恐怖を描くことをお楽しみポイントにする)。
「ロッキー」は、人間ドラマ(ミッキーとのぶつかり合い、エイドリアンとの貧乏なラブストーリー)
や、トレーニング(朝に生卵を飲む、走る、肉を叩く)。
「風魔の小次郎」は、
風魔対夜叉の忍術合戦(死鏡剣や白羽陣や殺陣やCG)や、
男たちの絆(やや腐向けか)、聖剣バトルである。
予告編や、惹句は、通常これを基につくられる。
いくつか見せるのはネタバレではない。
それが面白そうだというショウとしての価値だ。
最近間違っているのは、
このストーリーとしての引きつけに、
キャストで引くことである。
キャストは勿論引きのひとつだが、
ストーリーの引きではない。
客はストーリーを見るのであり、キャストを見るのではない。
キャストを見るだけならホームページやツイッターを見てればいい。
キャストを見るだけなら付き合えばいい。
そうではなく、客はストーリーを見に来る。
そして、映画やドラマとは、ストーリーを見るものだ。
ここが物凄く勘違いされている。
ストーリーとキャストは、分離して考えるべきだ。
あなたの一幕や二幕は、
そのような引きつけポイントにどんなものがあるだろうか。
てんぐ探偵なら、
心の闇に囚われた人々が一幕での外的問題
(心の問題でもあるので同時に内的問題だ)、
バラエティー溢れる心の闇の倒し方や、
色々な個性的人達や遠野の妖怪(十天狗ふくむ)が、
二幕でのお楽しみポイントといったところか。
三幕は、問題の解決を示してテーマを暗示し、
カタルシスをもって影響を与える部分だ。
「ジュラシック・パーク」なら、
「人間以外の原理が世の中にはあり、人間の限界はまだまだ小さい」
という感覚だろう。
「ロッキー」なら、
「最後まで立つことで自分を示しきった満足感」である。
ここで完全燃焼したからこそ、
多くの人は生卵を飲み、階段をかけ上がって影響を受けた。
ドラマ「風魔の小次郎」なら、
「心に暖かい風を吹かせる、新しい形の忍びになる」こと。
これは忍び関係なく人間に言えること。
つまり、みんな小次郎みたいになりたいと思うこと。
てんぐ探偵は、まだ三幕に入っていないが、
一幕に暗示されていること、「闇にかざすのは、炎だ」が、
その結論になることは予測できるだろう。
一幕、二幕、三幕には、
ストーリー内で果たす役割もあるが、
このように、観客に対して働きかける役割もある。
ふと我に帰って、自分の話を分析してみるといい。
これらのように、単純化することはとても大事だ。
単純化して、強くすることが大事だ。
ごにゃごにゃしてもにょもにょしたものは、
結局弱いからだ。
2015年06月02日
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