ドラマ版デスノートの漏れてくる情報が酷い。
以前指摘した、事務所の件についても言及されはじめている。
ミサミサのビジュアルも公開された。
似てるとか似てねえとか、ほんとどうでもいい。
何回でも指摘しよう。
ビジュアルを似せることは、モチーフを一致させることに過ぎない。
正しい実写化とは、テーマを一致させることだ。
「死神と契約し、名前を書けば殺せるノート」と、
「それを巡る偽救世主と変人探偵の攻防」が、
原作デスノートのストーリー構造の要素で、
モチーフだ。
これで描かれるテーマはなんだろう。
ここからは僕の解釈なので、異論はあるのを覚悟だ。
頭のよい人に愚民は従うべきだvs頭がいいのは僕の方だ、
という正義なき闘いによって、
指針なき現代を憂うこと。
勧善懲悪ではなく、ミスをしたほうが死ぬという、弱肉強食。
つまり、ミスをつきあうこと。
人はどこかでミスをすること。
詭弁や抜け穴は、どうにでも言葉でつくれること。
表面に見えていることと、心で思ってることは違うこと。
(特に純粋に月を愛するミサミサのサブプロットにおいて)
これらのような事が描かれてさえいれば、
別にモチーフはなんだっていいのだ。
死神がいなかろうが、
月が警視総監の息子でなかろうが、
Lが偏食でなかろうが(自閉症的であることは面白いモチーフだが)、
ミサミサがいようがいまいが、
死神の目がなかろうが、
デスノートがなくたって、
いいはずなのだ。
流石にデスノートありきだろうけど。
極端に言えば、
デスノートを拾った大学生と天才警部補の対決のように、
登場人物総取っ替えだっていいはずだ。
対決ものでさえなくてもよいかも知れない。
テーマさえきちんと描けていれば。
そしてこのテーマ自体が、
やや古びているような気がする。
ピカレスクロマンかっけー、と思えるのは、
平和ボケしているときだ。
漫画デスノート連載時より、
今、人の心や社会は荒んでいる。
このテーマを今書くこと自体が間違っている。
テーマを一致させて別のモチーフで描く実力もない人が、
テーマを現代的にアレンジして、
(それは我々が許しがたいぬるいものになる予感)
モチーフだけを一致させてくるだろう。
それは、原作のガワだけ残したまがいものだ。
本物なら、中身を一致させてくるだろう。
ということで、似てるとか似てないとか、
一生やってればいいさ。
どうせポテチ袋の再現度を競うんだろ?
実写化は、再現ドラマじゃねえんだ。
勿論これらの前情報は全部フェイクで、
素晴らしいドラマかも知れないけどね。
ドラマ風魔は何故素晴らしかったか?
原作が持っていたテーマのようなものを掘り下げ、
原作がもしかしたら言おうとしていたことかも知れないテーマにたどり着き、
(それは第一ページ、「希望の風のようなアイツ」という言葉から僕が読み込んだことだ)
それを元に組み換え、
にも関わらずストーリー構造の基本
(バトルと死に順。例外は黒獅子、陽炎、壬生のみ)
を変えなかったからだ。
勿論後半はグッと変えて、ドラマならではの面白さへシフトしたけど、
基本は全て守ったからだ。
多分だけど、ドラマデスノートのスタッフは、
風魔を見ていない。
まことに残念である。
僕は映画版はリュークのCGがあまりにださくて、
ずっと敬遠していた。
原作ごえと言われるラスト、というものを今回の騒動で初めて知った。
見たらまた何か書くかも。
2015年06月02日
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