2015年06月02日

モチーフじゃない、テーマなんだ

ドラマ版デスノートの漏れてくる情報が酷い。
以前指摘した、事務所の件についても言及されはじめている。

ミサミサのビジュアルも公開された。
似てるとか似てねえとか、ほんとどうでもいい。

何回でも指摘しよう。
ビジュアルを似せることは、モチーフを一致させることに過ぎない。

正しい実写化とは、テーマを一致させることだ。



「死神と契約し、名前を書けば殺せるノート」と、
「それを巡る偽救世主と変人探偵の攻防」が、
原作デスノートのストーリー構造の要素で、
モチーフだ。

これで描かれるテーマはなんだろう。
ここからは僕の解釈なので、異論はあるのを覚悟だ。

頭のよい人に愚民は従うべきだvs頭がいいのは僕の方だ、
という正義なき闘いによって、
指針なき現代を憂うこと。
勧善懲悪ではなく、ミスをしたほうが死ぬという、弱肉強食。
つまり、ミスをつきあうこと。
人はどこかでミスをすること。
詭弁や抜け穴は、どうにでも言葉でつくれること。
表面に見えていることと、心で思ってることは違うこと。
(特に純粋に月を愛するミサミサのサブプロットにおいて)

これらのような事が描かれてさえいれば、
別にモチーフはなんだっていいのだ。
死神がいなかろうが、
月が警視総監の息子でなかろうが、
Lが偏食でなかろうが(自閉症的であることは面白いモチーフだが)、
ミサミサがいようがいまいが、
死神の目がなかろうが、
デスノートがなくたって、
いいはずなのだ。

流石にデスノートありきだろうけど。

極端に言えば、
デスノートを拾った大学生と天才警部補の対決のように、
登場人物総取っ替えだっていいはずだ。
対決ものでさえなくてもよいかも知れない。
テーマさえきちんと描けていれば。

そしてこのテーマ自体が、
やや古びているような気がする。
ピカレスクロマンかっけー、と思えるのは、
平和ボケしているときだ。
漫画デスノート連載時より、
今、人の心や社会は荒んでいる。

このテーマを今書くこと自体が間違っている。


テーマを一致させて別のモチーフで描く実力もない人が、
テーマを現代的にアレンジして、
(それは我々が許しがたいぬるいものになる予感)
モチーフだけを一致させてくるだろう。

それは、原作のガワだけ残したまがいものだ。
本物なら、中身を一致させてくるだろう。


ということで、似てるとか似てないとか、
一生やってればいいさ。
どうせポテチ袋の再現度を競うんだろ?

実写化は、再現ドラマじゃねえんだ。


勿論これらの前情報は全部フェイクで、
素晴らしいドラマかも知れないけどね。

ドラマ風魔は何故素晴らしかったか?
原作が持っていたテーマのようなものを掘り下げ、
原作がもしかしたら言おうとしていたことかも知れないテーマにたどり着き、
(それは第一ページ、「希望の風のようなアイツ」という言葉から僕が読み込んだことだ)
それを元に組み換え、
にも関わらずストーリー構造の基本
(バトルと死に順。例外は黒獅子、陽炎、壬生のみ)
を変えなかったからだ。
勿論後半はグッと変えて、ドラマならではの面白さへシフトしたけど、
基本は全て守ったからだ。

多分だけど、ドラマデスノートのスタッフは、
風魔を見ていない。
まことに残念である。


僕は映画版はリュークのCGがあまりにださくて、
ずっと敬遠していた。
原作ごえと言われるラスト、というものを今回の騒動で初めて知った。
見たらまた何か書くかも。
posted by おおおかとしひこ at 12:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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