短いこと。
それでいて本質が現れていること。
かつ魅力的で、キャラが立っていること。
逆に言うと、
長かったり、
本質がよく分からなかったり、
ぼんやりしているものは、
キャッチーではない。
一発でズバリといけるように、
アイデアを煮詰めよう。
それはたぶん言葉だ。
勿論一枚絵のこともある。
しかしキャッチーな絵とは、実はキャッチーな言葉で示せるものでもある。
絵だろうが言葉だろうが、
「概念としてのズバリさ」が、
キャッチーには必要だ。
勿論、それが今までによくあるものではなく、
新しい形の概念を示しているものがよい。
我々はいつもキャッチーになるように、
物事を整理している。
あるものを産み出すということは、
まだ未分化なぐねぐねしたものから、
ズバリとしたキャッチーな一塊にまとめることかも知れない。
広告では、
せっかく俺がまとめたキャッチーなものを、
誰かがぐちゃぐちゃにしていくことがよくある。
その人は、ぐちゃぐちゃにしていることに気づいていないのだろう。
キャッチーじゃなくなる、
つまり魅力がなくなる、と警告しても理解しない。
キャッチーかどうかで、生きていないからだと思う。
ということで、今日も原稿を踏みにじられて憤っている。
キャッチーかどうか。
そこが勝負だ。
よく、分かりやすい/分かりにくいという軸で捉えられる。
僕は、受け入れたい/受け入れたくないの軸で捉えるべきだと思っている。
分かろうが分かるまいが、
受け入れたいこととは別のことだ。
2015年06月02日
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