2015年06月04日

文章表現の力

小説を書くようになって、文章による表現について、
少し分かってきたことがある。
シナリオと小説の文章の違いについて。



物語が同じだとしても、
シナリオと小説では、文章表現がまるでことなる。

シナリオでは、
なるべく簡潔に書く。

   彼は敵の顔を殴る。

というように。
誤解を招かず、現場に用意するものが何かを想像させるものを。
(倒れる用のマットや血糊などがいるかどうかを、
この文章からスタッフは読み取る)
どれぐらい激しくかは、文脈次第だ。
監督の解釈、役者の解釈も微妙に異なる。
それは個性もあるし、
フィルムに見えた表現として、全体の中での一場面としてこれくらい、
というのもあるし、
このときのこの人たちのビビッドな気持ちのリアリティー、
というのもある。
前の場面から引きずっているとしたらこれぐらい、
というのもある。


これが小説表現だと、「雅な」表現に出来る。

彼は拳を固めた。人を殴ったことのない拳だ。
しかし怒りがそれを鉄拳にさせたのだ。
狙いを定め、彼は拳の大砲を撃った。
狙いは厳密には外れたが、概ね目的を達成した。
敵のプライドの牙城と頬骨を、幾ばくか崩すことに成功したのだ。


などのようにだ。
修飾語とか、人を殴ったことのない拳だ、というあとづけ設定や、
大砲とか牙城とかの例えばなしによる別のビジュアルなどを、
殴る行為の中に持ち込むことが出来る。

このようなものは、シナリオに持ち込んではいけない。

あることだけを書く。
動作だけを書く。

シナリオを、小説で膨らませることが出来る。
小説を、シナリオで精錬する。
勿論、小説で想像した絵はシナリオには出てこない。
大砲も牙城もだ。
殴る絵だけだ。


これは、文章表現そのものの違いだ。
文体が絵になるのだ、と小説を評したが、
シナリオは絵作りの骨格、
小説は絵作りまで終えたあと、
の違いはある。


ここまでは、誰でも思いつくことかも知れない。

だけど、小説の文章表現には、その奥がある。

「新しい文章表現をつくること」だ。


例えば川端康成「雪国」、
有名な、トンネルを抜けると、のあとの二文目。
「夜の底が白くなった」。
この文章から、我々は様々な想像をする。
どういうことだろうか、と。

真っ暗な夜が、地面に一面積もった雪によって、
下から照らされているような風景だろうか。
とても静かで、芯から冷えるようで、時間が停止したかのような感覚だろう。
雪は降っているのか。おそらく止んでいる。
時間が制止したような世界だからだ。
電車の窓の外の死の世界、
電車の内側の吐く息も白い生の世界、
これらの対比する構図が浮かぶし、
また無限の広さの雪原に視点を動かすことも出来る。
そこで動くものとは夜行列車ひとつ。

これは僕の想像だから、
別の人は別の想像をするだろう。

つまりそのような事が文章表現には可能だ。

新しい言葉の組み合わせによって、
通常に意味をなす言葉でないものから、
新しい想像(一意性のない)をさせる表現を、
作り出すことが出来るのである。


これはシナリオには厳禁だ。
一意性がないなら、スタッフが用意できない。
背景は何か、カメラはどこから何を撮るのか、
カメラ前は何を用意するのか、
役者は必要か、その芝居は何を思って何をするのか、
これらがまるで読み取れない文章表現になってしまう。

で、多分、これが小説表現の強みだ。



僕はシナリオ出身だから、
小説のこういう所が上手くないと思う。
目の前にあることを、なるべく正確に、ソリッドに書くこと、
いわば新聞記者のように書き、時々雅に書くことは出来る。
それを小説家は、新しい言葉の組み合わせを発明することで、
その枠組みを飛び越えるのだろう。

ということで、僕は本当には小説を分かっていない。
物語そのものについては分かっている(つもりだ)。

小説とは、ひょっとしたら、物語が出来ていなかったとしても、
文章表現だけで唸らせるジャンルなのかも知れない、
と疑うようになってきた。
(下らないCMが、ガワだけで受けを取るように)
そこのところは分からない。

どちらにしても、
物語を書くことが、
一番誠実だと思うことにしている。
posted by おおおかとしひこ at 11:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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