小説を書くようになって、文章による表現について、
少し分かってきたことがある。
シナリオと小説の文章の違いについて。
物語が同じだとしても、
シナリオと小説では、文章表現がまるでことなる。
シナリオでは、
なるべく簡潔に書く。
彼は敵の顔を殴る。
というように。
誤解を招かず、現場に用意するものが何かを想像させるものを。
(倒れる用のマットや血糊などがいるかどうかを、
この文章からスタッフは読み取る)
どれぐらい激しくかは、文脈次第だ。
監督の解釈、役者の解釈も微妙に異なる。
それは個性もあるし、
フィルムに見えた表現として、全体の中での一場面としてこれくらい、
というのもあるし、
このときのこの人たちのビビッドな気持ちのリアリティー、
というのもある。
前の場面から引きずっているとしたらこれぐらい、
というのもある。
これが小説表現だと、「雅な」表現に出来る。
彼は拳を固めた。人を殴ったことのない拳だ。
しかし怒りがそれを鉄拳にさせたのだ。
狙いを定め、彼は拳の大砲を撃った。
狙いは厳密には外れたが、概ね目的を達成した。
敵のプライドの牙城と頬骨を、幾ばくか崩すことに成功したのだ。
などのようにだ。
修飾語とか、人を殴ったことのない拳だ、というあとづけ設定や、
大砲とか牙城とかの例えばなしによる別のビジュアルなどを、
殴る行為の中に持ち込むことが出来る。
このようなものは、シナリオに持ち込んではいけない。
あることだけを書く。
動作だけを書く。
シナリオを、小説で膨らませることが出来る。
小説を、シナリオで精錬する。
勿論、小説で想像した絵はシナリオには出てこない。
大砲も牙城もだ。
殴る絵だけだ。
これは、文章表現そのものの違いだ。
文体が絵になるのだ、と小説を評したが、
シナリオは絵作りの骨格、
小説は絵作りまで終えたあと、
の違いはある。
ここまでは、誰でも思いつくことかも知れない。
だけど、小説の文章表現には、その奥がある。
「新しい文章表現をつくること」だ。
例えば川端康成「雪国」、
有名な、トンネルを抜けると、のあとの二文目。
「夜の底が白くなった」。
この文章から、我々は様々な想像をする。
どういうことだろうか、と。
真っ暗な夜が、地面に一面積もった雪によって、
下から照らされているような風景だろうか。
とても静かで、芯から冷えるようで、時間が停止したかのような感覚だろう。
雪は降っているのか。おそらく止んでいる。
時間が制止したような世界だからだ。
電車の窓の外の死の世界、
電車の内側の吐く息も白い生の世界、
これらの対比する構図が浮かぶし、
また無限の広さの雪原に視点を動かすことも出来る。
そこで動くものとは夜行列車ひとつ。
これは僕の想像だから、
別の人は別の想像をするだろう。
つまりそのような事が文章表現には可能だ。
新しい言葉の組み合わせによって、
通常に意味をなす言葉でないものから、
新しい想像(一意性のない)をさせる表現を、
作り出すことが出来るのである。
これはシナリオには厳禁だ。
一意性がないなら、スタッフが用意できない。
背景は何か、カメラはどこから何を撮るのか、
カメラ前は何を用意するのか、
役者は必要か、その芝居は何を思って何をするのか、
これらがまるで読み取れない文章表現になってしまう。
で、多分、これが小説表現の強みだ。
僕はシナリオ出身だから、
小説のこういう所が上手くないと思う。
目の前にあることを、なるべく正確に、ソリッドに書くこと、
いわば新聞記者のように書き、時々雅に書くことは出来る。
それを小説家は、新しい言葉の組み合わせを発明することで、
その枠組みを飛び越えるのだろう。
ということで、僕は本当には小説を分かっていない。
物語そのものについては分かっている(つもりだ)。
小説とは、ひょっとしたら、物語が出来ていなかったとしても、
文章表現だけで唸らせるジャンルなのかも知れない、
と疑うようになってきた。
(下らないCMが、ガワだけで受けを取るように)
そこのところは分からない。
どちらにしても、
物語を書くことが、
一番誠実だと思うことにしている。
2015年06月04日
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