脚本家を目指す人や監督を目指す人は、
一体何を根拠に、出来ると思うのだろうか。
引いた目で考えてみよう。
例えば漫画家は分かりやすい。
毎年何本の新連載がはじまり、
何本が残るのだろうか。
そのうち何本がヒットと言えるのだろう。
そして更に歴史に残るのは何本か。
ざっくり、
500/50/5/0.5
と見積もることにしよう。
少なくとも1/10に、
本当には1/1000に残らなくてはならない。
その競争に参加し、
敗北して消えてしまわないと、
あなたは何を根拠に言うのだろう。
理由もない自信は、若さゆえにある。
俺が一番だという無根拠は、勢いを生む。
しかし冷静に考えて、それは面白さと一対一対応はしない。
誰か(編集者など)大人に認められたから、
自分は才能があるのだろうか。
その大人を100%信用できるのか。
大人になれば分かることだが、
大人の目なんてだいぶいい加減だ。
ある映画を観てバラバラなことを言う。
では複数の評価の平均か。
誰もが納得するものを炙り出すことは出来るが、
惜しい作品、直せば一位になれた作品を拾うことは出来ない。
複数の多数決は、チャンピオンを決めることしか出来ないシステムだ。
そしてあなたがチャンピオンであるかというと、
多分違う。
僕は、自分で自分を評価するしかないと考えている。
他人の評価は当てにならないと思っている。
自分が今まで見てきた膨大な物語に対して、
どれだけ上回り、更新し、下回り、劣っているか、
を正しく見るべきだと思っている。
それしか客観的になれない。
だから、過去の作品を見たり、現在の作品を見たりすることは大切だ。
(どうも現在の作品が、過去の作品を越えてないことに不安だ。
作品そのものか、僕の目のどちらかまたは両方がダメになっている可能性がある)
つまり、客観的になるということは、
膨大な努力がいる。
あなたの中に才能が眠っているか?
それは、やってみないと分からない。
あなたは一発屋かも知れないし、
何作か書いて枯渇するかも知れないし、
無尽蔵に才能が眠っているかも知れない。
試しに何本か書いてみよう。
出来にばらつきがあるだろう。
その平均値が、50/500に入っているなら、
これから書き続ける賭けに出てもいいかも知れない。
或いは、書けば書くほどその力は上がる。
僕が初めて書いた小説「てんぐ探偵」の、
旧第一話(今は見れない)と最新話を比較すれば、
その成長を見ることが出来る。
ある程度上げたところで、
また実測してみればよい。
何故あなたは自分の中に才能が眠っていると思うのか?
書いてない奴は、俺はモテるぜと言う童貞と同じだ。
書いてる奴は、そこまで過信しないものだ。
スパークしてるときの全能感と、
冷静になったときの地獄のような落ち込みとの間で、
日々揺れ動いているはずだ。
(スパークしてるときだけ、才能があるぜと発言しているかも知れないが)
その揺れを冷静に観察し、
自分の才能はどこにあるかを見つめることが出来れば、
自分で自分を育てられる。
その時にはじめて、自分に眠る才能について、
自覚するときが来るだろう。
2015年06月04日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック