2015年06月07日

また極論してみる

コンテンツビジネスって言ってる奴らはさ、
クリエイターがいないほうが都合がいいんじゃないか?



次にこういうのが来そうだからこれに張るとか、
一緒に苦労してつくるとかじゃなくて、
自動的にシリーズコンテンツが生産されるとか、
既にあるコンテンツをぐるぐる回すだけで、
もういいって思ってないか?
つまり、コンテンツビジネスは、発想がロボット化してないか?


さくま氏の桃鉄騒動を見て思った。
僕は桃伝はクリアし桃鉄はスーファミまで楽しんだ。
ゲームは、ネット化したりDL化しはじめてから、
「作品」ではなく「コンテンツ」になったような気がする。

最近の映画やドラマも、
作品ではなくコンテンツ扱いされている気がする。

永遠に人類の歴史に残すべき作品ではなく、
リリースすれば自動的に儲かる魔法の箱が、
コンテンツだと思い込んでる節がないか?

だから新作が旧作を凌駕しないのではないか?

作家一人の力で、そこまで出来るわけがない。
作家とプロデューサーが議論して、
同等に闘って、
ベストの形へ偶然おさまるまでヒートアップしない限り、
僕は世の中を変える、世の中とリンクする作品は作れないと思っている。
(だからてんぐ探偵は、一人で書いていて、
まだ世の中と噛み合うやり方がない、
半分しか開いてない作品だと思っている)

コンテンツビジネスは、
作品から熱や奇跡を奪い、
読める結果やノークレームを選び、
ローリスクハイリターンを目指している。
ハイリターンとは、作品が心に深く入ることよりも、
課金や通行料で自動的に儲かるシステムのことをいう。


音楽はコンテンツかなあ。作品かなあ。
ショートコントは。
演劇は。
小説は。
絵は。
ダンスは作品じゃなくて、コンテンツ扱いされてる。

ラノベは読んだことないけど、コンテンツの匂いがする。

昔、映画にもそれがあった。
プログラムピクチャーってやつだ。
二本立てとかやってたよね。

作品がコンテンツになった瞬間、
クリエイターは死ぬんじゃないかなあ。


ここ何年かの流れで、
CMの仕事を作品と言わず、案件と呼ぶのにずっと吐き気と寒気がしている。
つまり、CMはもう作品じゃなくてコンテンツなんだよなあ。


作品を書くのは苦しい。
時に自分の人生と引き換えのリスクがある。

コンテンツを作るのは理屈と集積だ。
マーケティングをして、そこにアイデアを足すだけだ。

コンテンツは多分進化したロボットに作れる。
作品は作れない。

つまり、シンギュラリティが起こる2045年で、
マス芸術、大衆芸術作品は終わり、
コンテンツビジネスしかない時代になるかも知れない。



それが嫌なので、
僕はこうして今日も苦しんでいる。

てんぐ探偵九集、来週末リリースが見えてきました。
posted by おおおかとしひこ at 01:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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