コンテンツビジネスって言ってる奴らはさ、
クリエイターがいないほうが都合がいいんじゃないか?
次にこういうのが来そうだからこれに張るとか、
一緒に苦労してつくるとかじゃなくて、
自動的にシリーズコンテンツが生産されるとか、
既にあるコンテンツをぐるぐる回すだけで、
もういいって思ってないか?
つまり、コンテンツビジネスは、発想がロボット化してないか?
さくま氏の桃鉄騒動を見て思った。
僕は桃伝はクリアし桃鉄はスーファミまで楽しんだ。
ゲームは、ネット化したりDL化しはじめてから、
「作品」ではなく「コンテンツ」になったような気がする。
最近の映画やドラマも、
作品ではなくコンテンツ扱いされている気がする。
永遠に人類の歴史に残すべき作品ではなく、
リリースすれば自動的に儲かる魔法の箱が、
コンテンツだと思い込んでる節がないか?
だから新作が旧作を凌駕しないのではないか?
作家一人の力で、そこまで出来るわけがない。
作家とプロデューサーが議論して、
同等に闘って、
ベストの形へ偶然おさまるまでヒートアップしない限り、
僕は世の中を変える、世の中とリンクする作品は作れないと思っている。
(だからてんぐ探偵は、一人で書いていて、
まだ世の中と噛み合うやり方がない、
半分しか開いてない作品だと思っている)
コンテンツビジネスは、
作品から熱や奇跡を奪い、
読める結果やノークレームを選び、
ローリスクハイリターンを目指している。
ハイリターンとは、作品が心に深く入ることよりも、
課金や通行料で自動的に儲かるシステムのことをいう。
音楽はコンテンツかなあ。作品かなあ。
ショートコントは。
演劇は。
小説は。
絵は。
ダンスは作品じゃなくて、コンテンツ扱いされてる。
ラノベは読んだことないけど、コンテンツの匂いがする。
昔、映画にもそれがあった。
プログラムピクチャーってやつだ。
二本立てとかやってたよね。
作品がコンテンツになった瞬間、
クリエイターは死ぬんじゃないかなあ。
ここ何年かの流れで、
CMの仕事を作品と言わず、案件と呼ぶのにずっと吐き気と寒気がしている。
つまり、CMはもう作品じゃなくてコンテンツなんだよなあ。
作品を書くのは苦しい。
時に自分の人生と引き換えのリスクがある。
コンテンツを作るのは理屈と集積だ。
マーケティングをして、そこにアイデアを足すだけだ。
コンテンツは多分進化したロボットに作れる。
作品は作れない。
つまり、シンギュラリティが起こる2045年で、
マス芸術、大衆芸術作品は終わり、
コンテンツビジネスしかない時代になるかも知れない。
それが嫌なので、
僕はこうして今日も苦しんでいる。
てんぐ探偵九集、来週末リリースが見えてきました。
2015年06月07日
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