この話は、実質どういう話だったのか。
この話は、そもそもどういう話を書こうとしたのか。
この二つを紙に並べて書いてみること。
書き終えたあとの正しい反省会は、
より良いリライトへの可能性につながる。
この二つが完全に一致するのなら、
反省会はなくていい。次回作に挑もう。
99%以上の確率で、両者には齟齬がある。
まずは、当初の計画のようにするためには、
何が足りなかったのかを考えよう。
何かが余計なのかも知れない。
その計画通りに出来るのなら、
そのように書き換えよう。
どうして出来なかったか、なんて学校のような反省文はいらない。
よりよくするためにはどうすべきかを考えるのが、
プロの反省会だ。
(その為にはこれに気づくべきだった、という、
センサーに対する反省をすることもあるけど)
新しいプロットやシーンや展開を思いついたら、
それらに換装したら、
どう変わるかを想像しよう。
そもそも目指していたことになりそうなら、
そのリライト方針でやってみることだ。
当初の計画ではこうだったが、
今こうなっている、
しかし、当初の計画よりも今の方がよい、
と考えられる場合もある。
そのときは、今こうなっているものを、
より強く、面白く、深く、ドラマチックにするためには、
どうすればいいかを考えよう。
当初の計画は捨てていい。
多分前半を大幅に書き直すことになる。
タイトルも変更するかも知れない。
大工事だ。
短編ならまだしも、長編はかなりキツイ。
そしてこのタイプは、前半部を上手く改稿しきれずに、
中途半端な作品になって終わる。
松本人志の珍映画「大日本人」がまさにこういう感じだ。
あのラストを思いついたなら、前半部を書き直すべきなのだ。
松本は二時間かけたコントをやったことがないのだろう。
あのラストを落ちにするなら、枕を考え直すべきだった。
完全に、
当初書こうとしていたものと、
後半書いていたものは異なっていたはずだ。
あのラストの駄目さを救うには二種類あった。
当初の計画どおり、大日本人の悲哀をそのまま描くラストにする。
(そしてそれは微妙になっただろう)
もうひとつは、あのラストありきで、
大日本人へのインタビューという企画そのものを大幅カットし、
全く別の企画にすること。
どちらも決断出来なかったことが、
あの映画を世紀のダメ映画にしたてあげた。
あのシナリオは、プロの反省会を経由していないと思う。
何故反省会をするかというと、
完成度を上げる為である。
正確に言うと、
「一本の作品として、練られたベストの形」にするためだ。
中途半端な出来の作品は、この練りが足りない。
当初の計画通り、否、それ以上に面白くすること。
当初の計画は忘れて、一番いいところ合わせで、
最も面白いそれを作り直すこと。
どっちを選んでもいい。
最もダメなのは、「作者がどっちつかずで迷っている」である。
ズバリとした潔さが、
作品の切れを上げる。
それは、その話をどのようなものにするかという、ひとつの統一された意志のことだ。
反省会は、その為にはどうすればいいかを、
考える場である。
殆どの初心者は、作品がかわいくて、
反省会に至るだけの客観的な目が得られない。
まずは他人の作品で批評眼を鍛えるのが良いかも知れない。
2015年06月07日
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