2015年06月09日

全体を手で持つ経験

とくに打ち文字の人は、時々プリントアウトして、
クリップで止めるなりして、
頭からラスト(または今煮詰まってる所)まで、
「一度に手に持てる形」にするといい。

手書きなら、ノートだとしたらちぎって、
「その作品だけ単独、全部」を、
手に持てる形にするといい。

ひとつの塊、物体にしてしまうのだ。


人間というのは不思議なもので、
全体の外枠が把握出来ると、
中身の整理が出来るようになるものだ。


引っ越し前は荷物が色々あったけど、
引っ越し先の間取りが把握出来た途端、
そこに不要な荷物を捨てたり、
足りないものを買いに行けるようになる。

今日の献立を決めるのは、
個々の材料や栄養を考えることでもあるが、
献立という全体が決まった瞬間、
じゃあれはいらないとか、デザートを追加するとか、
細かいことを考えられるようになる。

男女の交際は、好きとか嫌いとか気にくわないとか認めるとか、
とかく距離の調整のしあいだが、
結婚して一緒に暮らすと決めた途端、
全体にとって今の些細な気持ちの変動は気にならなくなり、
全体にとってすべきことを出来るようになる。

山登りは、目の前の小さな凹凸をクリアし続けることだが、
今何合目と知ることや、全体のアップダウンなどを知ることで、
目の前の小さな凹凸を俯瞰できるようになる。


作劇も同じだと思う。

ただ、山登りの地図のようなものを書くことが、
極めて難しいジャンルであるのだ。

あらすじやプロットやボードがそうか?
ログラインや一言で書いたものはそうではない。

僕は手書きのぐねぐねしたメモをよく使う。
文を矢印やらなんやらで繋げた、
極めて他人には理解できないものだ。
仮にこれを構造地図と呼ぶことにしよう。

これがうまく書けないとき、
全体を手で持つのは、実に簡単な、
「全体を把握する経験」になる。


パラパラめくって、
どういう感情が書かれていたか、
どういう展開が書かれていたか、
どういう段落が書かれていたか、
なんとなく思い出す。

熟読せずにパラパラ見る程度でよい。
で、それを閉じて、手を離したとき、
頭のなかで全体の地図が出来上がっていく。

ああなってこうなってこうなって、というものが。


物語は、文章は一次元だが、
実際には三次元空間で動きのある四次元空間で、
しかも人間関係が複雑で変化するため、
n次元空間だ。
nは話によって異なる。

これを一次元的に地図にかく方法はない、
最適な地図は、物語によって形式が異なる、
というのが僕の経験則だ。

従って、それを頭のなかに構築するための共通の方法とは、
「全体を手で持つ」「パラパラめくって、なんとなく全体を思い出す」
以外にないと思うのだ。



さて、これをやると、
頭のなかに展開の地図のようなものが出来上がる。
(まだ地図をかいてはいけない。頭のなかでだけやること)

ここはもっとこうしたほうが面白くなるとか、
ここは省略したほうが面白くなるとか、
展開や設定やストーリーラインに関することが、
俯瞰で見れるようになるのだ。

これは手で地図をかかず、頭のなかでやるのがコツだ。
頭のなかで処理できる量だけでやるためだ。

所詮観客は頭のなかで処理するのだ。
原稿にこう書いてあるとかは関係ない。
観客の頭のなかに出来上がった全体像こそが作品だ。

その為に頭のなかでこちらが把握するのである。


これを僕は「体に入れる」という。
体に入れるのは、なんとなくだけど一日はかかる。

体に入れると、全体がどう整うべきか、
感覚で分かってくる。
言葉に出来ない地図が体の中に出来上がったのだと思う。

感情の流れが不自然なら受け入れられないから、
感情の流れを自然にするまで書き直さなければならない。
理屈の流れが不自然なら受け入れられないから、
理屈の流れが自然になるまで書き直さなければならない。
(自覚的でない、なんとなくの違和感として感じる場合もある)


リライトが失敗しやすいのは、
この「体に入れる」をせずに、
小手先だけで直しているからだ。

全体でどうかを見ずに、目の前の原稿を直しているからだ。
木を見て森を見ず、になっているのだ。



全体を手で持つこと。
体に入れること。
体のなかで矛盾せず、気持ちよくカタルシスを得られるものにすること。


なんかニューエイジくさいけど、
体の中に全体の地図をつくって、
それが心地よいかどうかで整えていくのは、
かなり感覚的だけど、一番確実な方法だ。

ちなみに僕は改訂が嫌いだ。
一度体に入れて整えた快を乱されて不快になるからだ。
だから最近のCMの直し前提作業に耐えられない。
部分の直しの指示が、全体の快の方向を向いてない。
その矛盾に時々体が不調を訴える。



例えば新しい本を買ってきたとき、
パラパラとめくった次は目次を眺めるように、
おそらくあなたは目次をつくりはじめるだろう。

目次は体の中の地図の指標にはなるが、
目次をつくっても全体が出来る訳ではないことを、
全体から目次を作ったならわかる筈だ。


文房具屋で、事務用の大きめのクリップを買ってこよう。
何十枚もの紙をガバッと挟める奴だ。
店員さんに60枚の紙をクリップで挟みたいなどと伝えれば、
大きい奴を紹介してくれる。

それで全体をひとつの塊にしてみよう。
持ったり重さを実感したり、
めくったり戻したり、
とにかくこの世界に、実体として存在させよう。

実体として存在したら、形を整えたくなるものだ。



ちなみに、今書いている原稿から。

畳は気にしない。笑
手書きの第一稿と文字打ちの第一稿。
zentai1.jpg

zentai2.jpg

パラパラめくって手で触ったり、持ったりすること。
zentai3.jpg

41話と42話の構造地図。ぐねぐねしたメモ。
2episodes.jpg

プロットは別紙にある。もう少し細かいことを書いている。
話によって構造が異なることが分かるとよい。
posted by おおおかとしひこ at 01:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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