二幕はほんとに困る。
問題の自分への無茶ぶりだ。
解決法を考えているべきだし、ゴールも決まっているのだが、
そこへ至る道筋を面白くするにはどうすればいいか分からないものだ。
こういうときは素直に戻るのがいい。
ふつうどうする?と。
主人公やその他の登場人物ではなく、
ふつうの人のふつうの感覚で、
目の前の事態を眺めてみるのだ。
ふつうどうする?と、考えてみる。
問題が目の前で起きた。ふつうどうする?
おばあさんが道に迷っている。
痴漢を目撃。
自動車事故が目の前で起きた。
包丁を持った男が走ってきた。
飲み屋で喧嘩を売られた。
離婚届をつきつけられた。
人を殴った。
さまざまな問題がある。
ふつうどうするだろうと考えることは、あなたの中に基準をもたらす。
あなたが変わった人だとしたら、
あなたはこう思いこうするかも知れないということと、
ふつうの人ならこう思いこうするかも知れないということの、
二つを思い浮かべてもよい。
答えはひとつではない。
平均的な反応と、特殊な反応と、滅多にない反応などが、
同時に思い浮かべられるのがよい。
ふつうどうする?への回答は、
色々なパターンを答えられ、
なおかつ、まあ一般的にはこうだよね、を答えることだ。
実はこの時点で、半ば二幕への選択肢が揃うのだ。
一幕の問題点を書こう。
ふつうどうする?
さまざまな回答を書こう。
あとは、それらを代表的なものも書き、特殊なものを書くとよい。
主人公は代表的な反応をし、脇役は特殊な反応をするかも知れないし、
脇役が代表的な反応をし、主人公は特殊な反応をするかも知れない。
どっちが面白いかは、問題と今後の展開によるだろう。
例えば風魔の小次郎は右足をぶち抜かれたが、
黙って療養しなかった。
ふつう回復に徹するのが忍びだとすると、
彼は変わらず暴れまわった。
その特殊性が、「ふつうこうする」ことと違うことを意味する。
つまり、彼は「ふつうじゃない」のだ。
この場合のふつうの反応は、竜魔や霧風や劉鵬に振っていて、
非常識と常識(ふつう)のコントラストをつくっている。
問題への反応、分析、対処。
人生の問題に、ベストの回答はない。
ましてや映画内の問題は、特殊な問題だ。
物語は、一般問題への一般解を描くことではない。
ある特殊な問題の特殊な解決を描くことで、
一般に還元可能なテーマを暗示することだ。
だから、ふつうこうする、ことに対してどうか、
という距離感を保つことは大事なのだ。
何故なら、物語はマスを対象にするからだ。
あなたの観客がたった一人なら、その人向けの話をつくってよい。
しかしあなたの書く物語は、マス向けの筈である。
マスという人はいない。個々は違う人々だ。
しかし、誰もが、自分という特殊と、ふつうの間で生きている。
(そして誰もが、自分はふつうだと思っている)
だから、ふつうこうする、という基準を示すことは、
この話がふつうの話なのか特殊な話なのかを、示すことになるのだ。
ふつうどうする?
この問いは常に大事だ。
ふつうこうするが、この人はこうする、も大事だ。
その時納得いかないなら、ふつうこうするだろ、
という違和感が出て、その話は詰まらなくなるだろう。
ふつうどうする?
その感覚で、二幕を滑り出してみよう。
その先に、登場人物たちならどうする?がある。
ふつうだとこうする。
だがこいつは。
そこが大事だ。
2015年06月10日
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