人生ではよくあることだが、
物語のなかでこれはない。
目的といっても、いつかミュージシャンになるとかではない。
物語のなかでは、「家賃を払う」ぐらいの小さなことでよい。
その目的を外的目的という。
物語は、外的目的を持った人物が、それを果たすまでを描いたものだ。
それが果たされたことが絵で示せるものを外的目的という。
外的目的が最初なくて、どこかで外的目的が発生するパターンはあるか。
それは、内的目的が既にあるときだ。
内的目的は、一言でいえば心の中のモヤモヤだ。
人は、言葉になっていようがなっていなかろうが、
心にモヤモヤを抱えている。
そのモヤモヤが形をもつ。外的目的によってだ。
「目的がない人が目的を持つ」ことを描くには、
この過程が不可欠である。
彼女に思いを伝えたいモヤモヤが、一緒の文化祭委員になることで、
文化祭を一緒に成功させようという外的目的を持つ。
自分は世界から外されているというモヤモヤが、
世界チャンピオンとの試合で自分を証明するという外的目的を持つ。(ロッキー)
そうでなければ、あまりにも唐突だ。
主人公の内的なモヤモヤは、大抵冒頭部に置かれ、
感情移入への橋渡しをすることが多い。
が、ルパン三世/カリオストロの城のように、
主人公の内的なモヤモヤを、あと説で語る場合もある。
(それはひと休憩するシーンだ。T2のミッドポイントも同じくである)
また、外的目的は立場によって自動的に出てくる場合もある。
借金取りの外的目的は借金を取ることだ。
しかし内的目的との矛盾で外的目的を変更することもある。
ロッキーが借金を取りに行って言い付け通り指を折れないのは、
その葛藤の名シーンである。
外的目的がない人は、内的なモヤモヤが既にある。
この原則を守っていると、
外的目的が突然発生しても、リアリティーのある展開や反応をつくっていける。
また、この構造は、主要登場人物に限られることが多い。
例えばドラマ風魔の小次郎は大変登場人物が多いが、
小次郎、壬生、姫子、蘭子だけが、
内的目的と外的目的を持っている。
(武蔵、竜魔、絵里奈、陽炎は半分だけある。霧風は微妙)
その他は、外的目的だけである。
夜叉姫も霧風も、本人が本当は何を欲し、
その為にどう外的目的を利用しているかは描かれていない。
(勿論、想像できるように背景はつくってあるけど)
多くの人物を捌くときはこのように、
主要登場人物、準主要登場人物、その他をわけ、
内的目的と外的目的を振り分けるといい。
内的目的を持つ者だけが、
外的目的が生まれたときに人間的になる。
外的目的だけの人物は、いわばロボットだ。
ロボットというとアレだが、駒だとも言える。
勿論外的目的によるコンフリクトを経験し、
内的なモヤモヤや葛藤はあるのだろうけれど、
それはあるだけで感情移入の対象にならないだけだ。
感情移入とは、まるで自分のように感じること。
好きとは、他者に感じる感情。
壬生や小次郎や姫子や蘭子は、まるで自分のように感じる。
竜魔や武蔵や霧風や陽炎や絵里奈は、他人への憧れが込みになり、自分のようには感じない。
他キャラ、たとえば黒獅子や劉鵬や麗羅や雷電や妖水は、
他人として好きになっている。
そのような、感情移入から好きのグラデーションが起こるように配役しているし、
内的目的と外的目的を与え、ストーリーを構築している。
風魔は原作では群像劇かも知れないが、
ドラマでは主要登場人物とそれ以外を明確に分けている。
それは、映画的物語の形に変換したのである。
目的がない人が目的を持つ。
これは人生ではたまによくあることだ。
大袈裟な目的でも、小さい目的でもいい。
これが物語で自分のことのように思えるのは、
内的なモヤモヤを共有するからである。
2015年06月10日
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