映画は、思うことよりもすることが重要だ。
それは人生とは関係がない。
映画というメディアの特徴である。
思うことはカメラに写らない。
することはカメラで写せる。
その人が喋らなくても、
することを見ればその人が何を思っているか、
大体または明らかに分かる。
あの映画は、あの人がこう思う映画だったね、
ということより、
あの映画は、あの人がああした映画だったね、
という記憶のされ方になる。
どう思うかは関係なく、
何をどうしたかが記憶に残る。
それは、視覚の記憶が、
思うことというあやふやな内容よりも、
ハッキリしているからだと僕は思う。
あのときあの人はどう思っていたんだろう、
というのは映画を思い出すときによくあることだ。
でもその人のしたことは覚えているものだ。
銃を構えたときどう思っていたのか、
などのように問われ、
殺すと思っていたとき何をしたか、
などのようには問われない。
記憶の構造に関係している。
また、カメラで撮れたものに関係している。
シナリオでは、
思うことは表に出すことができない。
(例外:独り言、ナレーション)
することで、思うことの代わりを表現するジャンルだ。
(すぐ初心者は、
拳を握りしめることで怒ることを表現したと思いがちだ。
そんな短絡的な記号の一対一対応ではない。
こういう文脈で彼女が無言で席を立つということは、
彼女は怒っているのだな、と思わせるような、
もっと高度なことを言っている)
登場人物は、劇中、思わない訳がない。
むしろ嵐のように色んなことを思い、心のなかは千々に乱れている。
しかしそれは、一切語られることなく、
することから察せられるように、「する」のである。
あなたが思うことは、することで伝えるしかない。
観客は、することからあなたが何を思っているのか、
文脈から読み取らなくてはならないのだ。
そのように作劇しなければならないのだ。
ゼスチャーゲームのほうが余程楽だ。
2015年06月11日
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