2015年06月11日

「思う」より「する」で語られる

映画は、思うことよりもすることが重要だ。
それは人生とは関係がない。
映画というメディアの特徴である。


思うことはカメラに写らない。
することはカメラで写せる。

その人が喋らなくても、
することを見ればその人が何を思っているか、
大体または明らかに分かる。

あの映画は、あの人がこう思う映画だったね、
ということより、
あの映画は、あの人がああした映画だったね、
という記憶のされ方になる。

どう思うかは関係なく、
何をどうしたかが記憶に残る。

それは、視覚の記憶が、
思うことというあやふやな内容よりも、
ハッキリしているからだと僕は思う。


あのときあの人はどう思っていたんだろう、
というのは映画を思い出すときによくあることだ。
でもその人のしたことは覚えているものだ。

銃を構えたときどう思っていたのか、
などのように問われ、
殺すと思っていたとき何をしたか、
などのようには問われない。

記憶の構造に関係している。
また、カメラで撮れたものに関係している。



シナリオでは、
思うことは表に出すことができない。
(例外:独り言、ナレーション)

することで、思うことの代わりを表現するジャンルだ。
(すぐ初心者は、
拳を握りしめることで怒ることを表現したと思いがちだ。
そんな短絡的な記号の一対一対応ではない。
こういう文脈で彼女が無言で席を立つということは、
彼女は怒っているのだな、と思わせるような、
もっと高度なことを言っている)


登場人物は、劇中、思わない訳がない。
むしろ嵐のように色んなことを思い、心のなかは千々に乱れている。
しかしそれは、一切語られることなく、
することから察せられるように、「する」のである。

あなたが思うことは、することで伝えるしかない。
観客は、することからあなたが何を思っているのか、
文脈から読み取らなくてはならないのだ。
そのように作劇しなければならないのだ。

ゼスチャーゲームのほうが余程楽だ。
posted by おおおかとしひこ at 01:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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