また感覚的な話だけど。
手に何も持たず散歩しよう。
外部記憶としてのケータイやメモ帳禁止。
体がほぐれた頃、歩きながら、
あるお話(あなたの創作でもいいし、既存でもいい)を、
架空の誰かに向かって説明してみよう。
頭から尻まで演じるのではなく(一部演じてもいい)。
どんな話でも、5分程度で説明するだろう。
歩きながらだと複雑な説明は出来ないからだ。
それを、「手に持てるレベルのおはなし」と呼ぶことにしよう。
大体、机に向かっているから、
話が複雑に、ややこしくなっていくのだ。
じっと粘って考えすぎるから、
たいして面白くない話だと気づかずに、
小さな所をこねくり回して、面白くならないと煩悶するのだ。
それは重箱の隅をつついただけのものになってしまう。
良くできたお話を、手に持てるレベルにしてみると、
「話の構造そのもの」が面白い、ということがすぐわかる。
昨日の飲み会で例に出したのは、傑作「ギャラクシークエスト」。
「スタートレック風B級SFテレビドラマのやる気のないキャストたちが、
そのテレビ放送を本当のことだと信じてる宇宙人に、
我が星を救ってくださいと頼まれ、その星へいく」という、
構造が抜群に面白い。
この面白さは、
「芝居が出来ないからセクシー担当の衣装を着させられたが、
いい年なので恥ずかしいオバサン役をシガニーウィーバーが演じてる」とか、
「劇中の『ネバーギブアップ!ネバーサレンダー!』の決め台詞が恐ろしくダサイが、
ファンは歓喜するので仕方なくやっている」などのディテールの面白さよりも、
上位概念である。
話を手に持てるレベルにすると、
このようなディテールの面白さははがれおち、
本質の構造的な部分だけが残ることになる。
歩きながら、何も手に持たずに話すと、
話を手に持てるレベルにすることが出来る。
実際には、頭の中の短期記憶で持っているのかも知れないけれど、
何も手に持っていない感覚から、
話を手で持っているような感覚にすることが出来るのだ。
多分あなたは身ぶり手振りを付け加えて話をするに違いない。
(重ね重ね言うが、その怪しい姿を知り合いに見られないようにすること)
その時のあなたは、「両手でキャベツを持っているような手」になっているはずだ。
(元ネタは、意識高い系の人のインタビュー画像が、
大体両手を体の前の空間に出した同じポーズなので、
そこにキャベツを持たせてみた、と合成したネットのネタ。
「キャベツを持たせてみた」でググってください)
話が手で持てるレベル。
手で持てるレベルで、面白い話にすること。
ディテールの面白さだけでない、
本当に面白い話は、
手で持てるレベルで既に面白い。
そういう風になっているか、
常に自分の作品をチェックするのに、
この方法はオススメだ。
あ、昼間はやめといたほうが。
僕はリライトにも、構想を詰めるときも、
こういう感じでやっている。
話を手に持ってみる。
歩きながらやるのがコツ。
何故なら、人類は歩きながら進化した生き物だから、
多分、それで把握できる分量程度が本質的だからだと、推測できる。
机の前で座っていて、大量のメモを一覧したり、
スマホのメモをいちいち見ていたりしていては、
その経験を積むことは出来ない。
さあ、手ぶらで散歩できるルートを開拓しておこう。
僕は隣駅に行くルートと、多摩川ルートの二つがある。
30分以内が楽なところだ。
2015年06月20日
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