男女カップルだろうが801的なものだろうが、
百合的なものだろうが、
「カップルのイチャイチャを見たい欲望」は、
物語と相反することについて、
これまで何度か指摘してきた。
何故なら、物語とは時間軸を描くものであり、
変化すればするほどよいからだ。
激動であればあるほどよいからだ。
カップルのイチャイチャとは、安定であり、
激動と真逆の存在だ。
だからカップルは物語ではない。
カップルがキスして終わるハッピーエンドが多いのは、
激動が終わり安定が訪れたことを暗示しているのである。
二度と変化しない安心を、カップルで表現しているのだ。
しかし、カップルのイチャイチャを、
どうしても物語の中で見たいときはどうすればよいか。
激動の中に放り込むといい。
つまり、安定かどうかを、激動が試すといい。
二人の愛が試されると、面白くなる。
例えば離ればなれになる
(遠距離、部署異動、戦争、さらわれる、疎開、事件に巻き込まれる)。
例えば二人の関係を壊す第三者が現れる
(元カレ元カノ、新人に浮気、異動の末かわいい子の登場、
無理矢理引き裂く悪役、悪魔の誘惑、強制的にカップルにならなければならない事情、
例えばいいなづけやカップルの振り)。
例えば心変わり。
例えばカップル解消。
あまり推奨ではないけどどちらかの死
(強烈なカード故に、あまり切らない方がいい。
どうしても使うにはそれなりの覚悟を。
例えば「エンジェルハート」冒頭で、槙村香が死んだことについて、
僕はまだ受け入れてなくて、100tハンマーで冴羽撩を殴っている世界が、
まだどこかで続いてることを信じている)。
たとえば、安易に、
「腐女子が喜ぶのでこのカップルのイチャイチャを入れてください」
と指示するバカPがいる。
バカな脚本家は嫌々そのカップルのイチャイチャ場面を入れて、
「腐女子がイチャイチャ入れりゃ喜ぶと思ってんだろ」と反発される。
カップルのイチャイチャが挿入できるとしたら、
激動ではなく安定の場面、
すなわち事件が起こる前、一幕のセットアップ(冒頭10分以内)か、
ラストシーンの激動が安定に戻る瞬間だけである。
それ以外の激動であるべき物語の最中にイチャイチャを(無理に)挿入するから、
おかしなことになるのである。
市野さんはそのあたりの勘所が上手く、
冒頭の研究でも述べたように、
各話冒頭シーンに飯を食うシーンでそれを持ってくる。
非常に巧みであると思う。
あるいは、もし激動中に挿入するとしたら、
激動の中わずかに再会し、互いの絆を目で確認しあう、
などの一瞬の再会だろうか。
一瞬だけれど多くを語れるシーンがよいのではないかな。
(竜霧派に配慮して、12話にその一瞬を盛り込んである。
サービスショットというべきか。僕はホモフォビアであるから、
あくまで男同士の信頼関係前提だが)
両家に引き裂かれたロミオとジュリエットを思い出すといいだろうね。
僕は「君の名は」世代ではないが、
すれ違いの愛についてのドラマは昭和の時代、
銭湯から人をいなくさせるぐらい人気だったそうだ。
カップルの激動は、安定よりも、人気を博すのだと覚えておくと良いだろう。
ただし、容易に想像されるように、
そのパターンは出尽くしてはいる。
少女漫画はそれらのパターンが豊富な、妄想の宝庫である。
しばらく日本映画を支えるコンテンツにはなると思う。
(これが枯渇すると、いよいよヤバいか)
デジタルの発達も、これをやりづらくさせている。
昔は待ち合わせに失敗するだけで一場面ドキドキしたものだ。
会えるか会えないかでドラマになったものだ。
絵をダイナミックに作ることも出来た。
今、既読無視なんて、小さな絵のドラマしか作れないことが、
ドラマをちんけなものにしている原因であることは、
皆薄々気づいていると思う。
人間の文明が人々の生活を安全に安定にしているのだから、
物語を作るには、そうでない激動(危険)に放り込むしかない。
ということで、大自然のサバイバルものとか、
時代劇とか、戦争ものとか、現代ものでもSFとか、
金のかかるジャンルにしか、激動は生まれにくくなっている。
例えば続編を考えるときも同じだ。
一作目でカップリングが成功して終わったものについては、
二作目で激動が訪れなければならない。
スパイダーマン1と2のその関係は、とても参考になるだろう。
(だから2と3の関係が糞なのだ)
隣の家の女の子(ちょいブス)との関係について、
スパイダーマン1と2ほど、完璧に作れた例はなかなかない。
あとタッチぐらいか。(これも酷い大人編あるしなあ…)
また、男女の愛的なものでなく、
友情的なものについても同じくである。
激動に放り込め。
当然だが、面白い激動を作り出すことは、
安定を描くより100万倍難しいよ。
2015年06月23日
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