2015年06月23日

激動のコントロール

物語は変化のことだ。
前の状況と今の状況が変わり、また次の状況を変えて行こうとすることだ。
その変化幅が大きいものを、激動という。
そして、それが理想である。


しかし、安易に激動にすると、すぐコントロールを失うものである。
エントロピーの法則だ。
秩序はカオスに飲み込まれるのだ。

例えば、冒頭部で異星人が侵略してくるとしよう。
ホワイトハウス壊滅させるとする。
人類は激震であり、事態は激動である。

ところが、その後政府側を主役とするならば、
もう展開に困ることになる。
しまった、ホワイトハウスは残しといて、例えば自由の女神を先に壊すんだったと後悔しても遅い。
つまり、カオスに飲み込まれるとは、
全部があとの祭りになってしまい、
先の計算が立たなくなることだ。


インパクトとかツカミとか、激動ばかりを考えていると、
このカオスの罠に捕まる。
話の骨格が分からなくなり、次何をしていいか分からなくなるのだ。

これもまた、書けない病の原因のひとつとなりがちだ。
(ここ最近何本かはじまった漫画の新連載が、
「日常がとあるインパクトで激動の日々になる」というパターンがとても多く、
とても気になっている。多分失速する、と予言しておく。
これ、うんこ映画「ガッチャマン」のパターンだよね)


計算もせずに激動を狙うのは間違い。
すぐにカオスに飲み込まれる。

最初は、ちゃんと骨格をつくる。
リライト時に振り幅を大きくして、より激動をつくるのがちゃんとしたやり方。
骨格がしっかりしていれば、
その激動の場面がどうやって収拾するか分かっているから、
最終的にそこへ向かいさえすれば何でも出来るからだ。

つまり、激動とは、コントロール下にあるのである。

遊園地のライドと同じだ。
死ぬか生きるか全く分からない乗り物はない。
全部安全だ。
にも関わらず、死ぬかもと思うほど怖い乗り物。

それがフィクションの激動である。


当たり前だが、これはフィクションの安全な乗り物と見破られてはダメだ。
この先全く読めない、激動極まりない不安に陥れなければ、
激動ではない。

例: ドラマ風魔の、壬生の暴走と陽炎の離反。

これは陽炎と壬生が組むこと、黄金剣が武藏の手に渡ることが、
最初から決まっているから出来たことだ。
その為に黒獅子を試し切りの相手に選び、
その為に黒獅子をイイヤツに描いたのだ。
つまり、劉鵬黒獅子のほのぼのギャグは、遠大にも、
武蔵が黄金剣を脱皮させる瞬間の為にあったのだ。
にわかに信じられないかもだが、それが計算されたプロの物語だ。
更に言えば、1話の壬生の敗北の瞬間、
2話の「俺を人数に入れてないな」から、それは繋がって計算されている。
一方風魔サイドでは、小次郎のお調子者っぷりと姫子の憂いが、
最後まで繋がっている。



まず骨格をフィックスすること。
その上で、出来るだけ激動にして、感情を揺さぶること。
その骨格をフィックスするには、そもそもテーマを確定させて、
一つの企み基準で全てが統合されていること。

激動をコントロールするには、これら全てが出来なくてはならない。

展開に困ってとりあえず驚きに持っていくと、
確実にケツを拭けなくなるし、
解決してない伏線が余ることになるよ。
posted by おおおかとしひこ at 13:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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