物語は変化のことだ。
前の状況と今の状況が変わり、また次の状況を変えて行こうとすることだ。
その変化幅が大きいものを、激動という。
そして、それが理想である。
しかし、安易に激動にすると、すぐコントロールを失うものである。
エントロピーの法則だ。
秩序はカオスに飲み込まれるのだ。
例えば、冒頭部で異星人が侵略してくるとしよう。
ホワイトハウス壊滅させるとする。
人類は激震であり、事態は激動である。
ところが、その後政府側を主役とするならば、
もう展開に困ることになる。
しまった、ホワイトハウスは残しといて、例えば自由の女神を先に壊すんだったと後悔しても遅い。
つまり、カオスに飲み込まれるとは、
全部があとの祭りになってしまい、
先の計算が立たなくなることだ。
インパクトとかツカミとか、激動ばかりを考えていると、
このカオスの罠に捕まる。
話の骨格が分からなくなり、次何をしていいか分からなくなるのだ。
これもまた、書けない病の原因のひとつとなりがちだ。
(ここ最近何本かはじまった漫画の新連載が、
「日常がとあるインパクトで激動の日々になる」というパターンがとても多く、
とても気になっている。多分失速する、と予言しておく。
これ、うんこ映画「ガッチャマン」のパターンだよね)
計算もせずに激動を狙うのは間違い。
すぐにカオスに飲み込まれる。
最初は、ちゃんと骨格をつくる。
リライト時に振り幅を大きくして、より激動をつくるのがちゃんとしたやり方。
骨格がしっかりしていれば、
その激動の場面がどうやって収拾するか分かっているから、
最終的にそこへ向かいさえすれば何でも出来るからだ。
つまり、激動とは、コントロール下にあるのである。
遊園地のライドと同じだ。
死ぬか生きるか全く分からない乗り物はない。
全部安全だ。
にも関わらず、死ぬかもと思うほど怖い乗り物。
それがフィクションの激動である。
当たり前だが、これはフィクションの安全な乗り物と見破られてはダメだ。
この先全く読めない、激動極まりない不安に陥れなければ、
激動ではない。
例: ドラマ風魔の、壬生の暴走と陽炎の離反。
これは陽炎と壬生が組むこと、黄金剣が武藏の手に渡ることが、
最初から決まっているから出来たことだ。
その為に黒獅子を試し切りの相手に選び、
その為に黒獅子をイイヤツに描いたのだ。
つまり、劉鵬黒獅子のほのぼのギャグは、遠大にも、
武蔵が黄金剣を脱皮させる瞬間の為にあったのだ。
にわかに信じられないかもだが、それが計算されたプロの物語だ。
更に言えば、1話の壬生の敗北の瞬間、
2話の「俺を人数に入れてないな」から、それは繋がって計算されている。
一方風魔サイドでは、小次郎のお調子者っぷりと姫子の憂いが、
最後まで繋がっている。
まず骨格をフィックスすること。
その上で、出来るだけ激動にして、感情を揺さぶること。
その骨格をフィックスするには、そもそもテーマを確定させて、
一つの企み基準で全てが統合されていること。
激動をコントロールするには、これら全てが出来なくてはならない。
展開に困ってとりあえず驚きに持っていくと、
確実にケツを拭けなくなるし、
解決してない伏線が余ることになるよ。
2015年06月23日
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