2015年06月26日

悪夢

キューブリック監督作品、「シャイニング」は、
見るべき映画の一本だが、
物書きにとって恐るべき悪夢が描かれているシーンがある。

以下ネタバレにつき。



一家の父であり小説家であるジャックニコルソンが、
一冬小説を書くために一家でホテルに滞在する話だ。

父はひたすら部屋にこもってタイプライターを叩き、
妻や子供たちはホテルの他のところであそぶ。
(ホテル内に一日中いて何が楽しいのかは分からないが、
外人の休みの過ごし方でよくあるパターン)
冬のリゾートホテルのため、大雪が降れば町から孤立し、
格好の巨大な密室になり、ホラー的な展開へ行く。

で、物語後半、
ずっと小説を書いていたと思ったジャックニコルソンの原稿を妻が見て、
衝撃を受けるのだ。
ひとつの文章だけを何百ページも延々と連ねた原稿。
ずっとパチパチ打っていた原稿がただのそれ。
つまり、ジャックニコルソンは最初から狂っていたのだと。
(ここから物語は一気にターニングポイントを迎える)


僕は時々このシーンを思い出して、冷や汗をかくことがある。
自分の書いているものが、このレベルかも知れないという悪夢にとらわれるのだ。


もし自分の書いているものが、
とても素晴らしくて、みんなが誉めてくれて、
よくやったね、と笑顔になると、
素直に思っているとしたら、
単なる初心者だ。
母親の庇護の元の子供と同じだ。


その先、
ちゃんと受けるだろうか、
いや受けるはずだ、と疑心暗鬼にとらわれるようになって、
ようやく中級者である。
「自分の話が100%受け入れられることはない」
ことを分かって来るからだ。

この先は、
受けるものと受けないもの(受けにくいもの)が、
何となく分かって来る。
受けるものだけを書くやり方もあるし、
受けないけれど自分の信じるものを書くやり方もあるし、
受けにくいけれど面白いから、なるべく噛み砕いて受けるようなものにしよう、
というやり方もある。

一番目のやり方はすぐ跳ねるけどすぐ飽きられる。媚びたと言われる。
二番目のやり方は一生を棒にふる。
単なる頑固親父に、コアなファンはつくかも知れないが。
死後に日の目を見ることもあるかも知れない。
三番目のやり方が、ベストだと僕は思う。
「今受けていないが、次に受けるもの」を、
ひとつの言葉やエンターテイメントとして作れた者だけが、
次の波をつくることができるだろう。


その次の段階は、
自分のやっていることに意味があるのか?
と自分に問う段階だ。
作るのがただ楽しかったアマチュア時代を経て、
受けるとか受けないとかの、観客を意識し始めることを経ると、
そこに届けるべき自分の原稿が、
たいして価値のないものであることに、
嫌でも気づくのである。

自信が単なる過信であることを知っている人だけが、
プロとしてやっていくことが出来る。
永遠に向上心があるからだ。
だから、永遠に自分は未熟であるということと、
付き合うことになるのである。

自分がどや顔で書いた原稿、
計算し尽くして書いた原稿、
恐る恐る書いた原稿、
ほとんどはたいしたことないが、ただ一点だけは面白いはずだという原稿。
それが、ジャックニコルソンのように、
一文だけを何百ページも書いた、
なんの意味もない原稿の可能性に、
恐怖しない人はいないだろう。

まだ白紙ならば気づく。
自分だけがそこに「書ききった」と思い、
自分だけが気づいていない。
なんたる恐怖か。


自分の原稿が、
そのようなものである可能性を、常に考えよう。
あなたの真意は全く伝わらないどころか、
あなたの真意は既に狂っているのかも知れない。

そのときに、客観的な分析が、
主観的な思いを越えられるのである。

少なくとも、
この話のテーマはこれこれで、
この話の構造はこのようになっていて、
最初の焦点はこれで、
このターニングポイントによって焦点はこれこれにうつり…
と、冷静に分析してみせるのだ。

そして、理屈上はこのような面白さがあるはずだ、
と客観的な予測を立てるのである。


自分の原稿が、そのような感情を、
100%観客に起こせるかどうかは、
沢山の聴衆の前にマイクを持って立ったときと同じだ。
あなたは狂っているのか。そう思って足がガクガク震えるのか。
それともこの原稿は少なくともこのような構造をもち、
それが観客にこのような感情を残すはずだと、
冷静でいられるだろうか。

冷静でいられて、なおかつ観客の一人として楽しめ、
突っ込みを入れられる人だけが、
このあと観客を沸かせられる。




悪夢を見るのはいい傾向だ。
その悪夢をはねのける、
「確かにここは面白い部分だ」があるかどうかを、
確認させるからである。

自分だけが狂っているのか。
それとも自分だけがまともで世間が狂っているのか。
それを確かめる手段は存在しない。

冷静で客観的な分析だけが、
確かな答えを導き出す。


時々、僕は「てんぐ探偵」の原稿
(既に文庫4.5冊ぶん)が、全て白紙なのではないか、
という恐れにとらわれることがある。
その時でも、この話は何をなしえたのか、
という分析をして、それは新しいから価値があるのだ、
と冷静になることにしている。
その分析が、僕の言葉でなく世間でも分かる言葉になったとき、
跳ねるものになると考えている。


そういえば、「ライムライト」で、
チャップリンすら、劇場の観客席が空になる悪夢を見ていたね。
妖怪「不安」を断ち切るのは、
「自分が不安に取り憑かれてると、客観的になること」さ。
posted by おおおかとしひこ at 10:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック