2015年06月26日

ストレートな人間ドラマは難しい

人間ドラマは、実は一番難しいと思う。
人間の悩みは、
たいてい他人にとって、とるに足らない小さなものだからだ。
逆に誰もが深刻に悩むようなことは、劇的な解決はまだ発見されていない。

つまり、問題と解決の設定が難しいのである。


普通の家族関係でなく、
異常な家族関係にすることは、
人間ドラマの中でよくあることだ。

少しでも、とるに足らない小さな問題を避けて、
一見大問題に見せかけるためである。
ドラッグや犯罪や売春などの、
社会問題行動に出るパターンも同じだ。
とるに足らない小さな問題を避けるためである。


多くの映画では、
人間の悩みや問題を描いたとしても、
ストレートな人間ドラマをなるべく避けて、
別の問題に仮託するようにつくる。

たとえばロッキー。
内面のドラマは人間ドラマだ。
自分のアイデンティティーを、
「俺は何者かなんだ」と宣言するまでの、
第三者から見たら、とるに足らない小さな問題を、
「ボクシングの世界戦という大舞台」を用意して描くのである。
不確定なアイデンティティーを、地下ボクシングのチンピラボクサー、
俺は何者かなんだという解決を、試合を最後まで立つこととエイドリアンに愛してるということ、
で、表現されているのだ。

内面の、他人にとってはとるに足らない小さな問題は、
このように、
外的な映画的「特殊事情」で描かれるのである。

「民族同士の差別から来た友情のもつれ」を、
「コロッセオの戦車戦やキリストの出現で描く」のは、「ベン・ハー」という映画だし、
「凝り固まった負の心」を、
「妖怪に取り憑かれたとして、妖怪退治で描く」のは、小説「てんぐ探偵」である。
「アメフトチームに入れなかった挫折」を、
「巨大ロボットの戦闘中、秘密の箱を走って運ばなければならない」で描くのは、
「トランスフォーマー」だ。(この映画はここだけ人間ドラマ)

テーマとモチーフの関係と同じだ。
この場合、テーマという確定的断定というよりは、
もう少し大きな、問題の題材のレベルだけど。


映画というのは、
人間ドラマを、映画的な(派手な)状況で描くこと、
と言えるのかも知れない。

だからその派手なもの、
つまり、ボクシングやコロッセオや妖怪や巨大ロボットを使わずに、
リアル要素だけで描くストレートな人間ドラマは、
難しいのである。

異常な家族関係とか、ドラッグや売春などは、
その派手な要素に属する。

とるに足らない小さな問題を、派手な舞台に乗せる道具だ。
(いっとき野島伸司が、レズやレイプや禁断の愛ばかり使っていて、
それでセンセーショナルにとらえられたけど、
それはとるに足らない小さな問題を、派手な舞台に乗せる装置だったのだ。
今やドラッグも売春も、かつてのような衝撃がないから、
あまり面白いネタではなくなってしまったが。
今の衝撃は何かねえ。幼なじみの女の子がニコ生主になって、
100万再生いった、とかかねえ)


ストレートな人間ドラマは難しい。

物語の制球力が試される。

腕試しに短いのを書いてもいいだろう。

(例えば短編シナリオを作品置き場にあげてあるが、
ビールのCMの一連は、その代表的なものだ。
それも、単なるストレートな現実ではなく、
現実に現れる映画的な瞬間、
たとえば一滴だけの乾杯とか、ボクシング引退を賭ける、
なんてのを道具だてとして使っている)
posted by おおおかとしひこ at 11:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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