人間ドラマは、実は一番難しいと思う。
人間の悩みは、
たいてい他人にとって、とるに足らない小さなものだからだ。
逆に誰もが深刻に悩むようなことは、劇的な解決はまだ発見されていない。
つまり、問題と解決の設定が難しいのである。
普通の家族関係でなく、
異常な家族関係にすることは、
人間ドラマの中でよくあることだ。
少しでも、とるに足らない小さな問題を避けて、
一見大問題に見せかけるためである。
ドラッグや犯罪や売春などの、
社会問題行動に出るパターンも同じだ。
とるに足らない小さな問題を避けるためである。
多くの映画では、
人間の悩みや問題を描いたとしても、
ストレートな人間ドラマをなるべく避けて、
別の問題に仮託するようにつくる。
たとえばロッキー。
内面のドラマは人間ドラマだ。
自分のアイデンティティーを、
「俺は何者かなんだ」と宣言するまでの、
第三者から見たら、とるに足らない小さな問題を、
「ボクシングの世界戦という大舞台」を用意して描くのである。
不確定なアイデンティティーを、地下ボクシングのチンピラボクサー、
俺は何者かなんだという解決を、試合を最後まで立つこととエイドリアンに愛してるということ、
で、表現されているのだ。
内面の、他人にとってはとるに足らない小さな問題は、
このように、
外的な映画的「特殊事情」で描かれるのである。
「民族同士の差別から来た友情のもつれ」を、
「コロッセオの戦車戦やキリストの出現で描く」のは、「ベン・ハー」という映画だし、
「凝り固まった負の心」を、
「妖怪に取り憑かれたとして、妖怪退治で描く」のは、小説「てんぐ探偵」である。
「アメフトチームに入れなかった挫折」を、
「巨大ロボットの戦闘中、秘密の箱を走って運ばなければならない」で描くのは、
「トランスフォーマー」だ。(この映画はここだけ人間ドラマ)
テーマとモチーフの関係と同じだ。
この場合、テーマという確定的断定というよりは、
もう少し大きな、問題の題材のレベルだけど。
映画というのは、
人間ドラマを、映画的な(派手な)状況で描くこと、
と言えるのかも知れない。
だからその派手なもの、
つまり、ボクシングやコロッセオや妖怪や巨大ロボットを使わずに、
リアル要素だけで描くストレートな人間ドラマは、
難しいのである。
異常な家族関係とか、ドラッグや売春などは、
その派手な要素に属する。
とるに足らない小さな問題を、派手な舞台に乗せる道具だ。
(いっとき野島伸司が、レズやレイプや禁断の愛ばかり使っていて、
それでセンセーショナルにとらえられたけど、
それはとるに足らない小さな問題を、派手な舞台に乗せる装置だったのだ。
今やドラッグも売春も、かつてのような衝撃がないから、
あまり面白いネタではなくなってしまったが。
今の衝撃は何かねえ。幼なじみの女の子がニコ生主になって、
100万再生いった、とかかねえ)
ストレートな人間ドラマは難しい。
物語の制球力が試される。
腕試しに短いのを書いてもいいだろう。
(例えば短編シナリオを作品置き場にあげてあるが、
ビールのCMの一連は、その代表的なものだ。
それも、単なるストレートな現実ではなく、
現実に現れる映画的な瞬間、
たとえば一滴だけの乾杯とか、ボクシング引退を賭ける、
なんてのを道具だてとして使っている)
2015年06月26日
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