2015年06月28日

何も知らない人にポンと出すこと

それで引き込めるかどうかは、
なかなかに難しい。


本来、冒頭というのはそういうことだ。
ツカミなどと簡単に言われたりする。

派手な事件を起こしたりして注目を引くのは、
幼稚なやり方だが有効だ。
しかし本当にこちらの世界に引き込むのは、
その派手な事件のあとからやらなければならない。


何も知らない人に、自分の世界に引き込むにはどうすればいいだろう。

美味しい所をちょい見せするといいと思う。


何も知らない人は、色んな文脈で生きている。
そのどんな人にも分かるような、
分かりやすい事件から引き込むといい。

あるいは本質に近いことを先に言ってしまうとよい。
「ギルバート・グレイプ」では、
ナレーションで既に、この苦しい世界から脱出することという、
作品の本質を語る所からはじめる。
(銀色の車の列を待っている)
色んな文脈で生きている人たちは、
なるほどこれについて二時間見ていればよいのか、
と身構えて、その先がそういう話であることを覚悟する。


どんな人も、これから語るお話に乗り出せること。

冒頭の役目はそれだ。
全員の意識をひとつにして、この先に注目させること。
それは派手な絵もさることながら、
その作品の本質をチラ見せすることがいい。
(本質がド派手な事件ならば、勿論冒頭からド派手な事件を起こせばいい)

つまり、
その作品の本質が出来ていない限り、
冒頭は書いてはいけないのだ。


お話の語り方とされる、三行の原則がある。

これから語ることを語れ。
語るべきことを語れ。
語り終えたことを語れ。

つまり、
前置き、本編、まとめ、
ということになる。

冒頭は前置き、ラストシーンはまとめに相当する。
ただ面白おかしいことを語るだけでは、
語りとしては下手くそだ。

これから語ることを前置きし、
語り終えたらまとめるのがよい。

それは、その話の本質がなんだったか、
という、語り手の認識が客観的になっていないとダメだろう。

「ギルバート・グレイプ」では、
脱出したいほどキツイ世界(ダウン症の弟、動けないほど太った母)
が描かれる。彼の決断については本編を見るとして、
脱出と今ある世界についてのことが、この話の本質であることを、
脚本家は知っているから、
ああいうオープニングとエンディングにしているのだ。

相変わらずロッキーで示せば、
男の惨めな生き方から誇りを取り戻す話であるからこそ、
男の惨めな生き方から話を始めているのである。
色々な文脈で生きている人たちを引き込むのに、
特殊な地下ボクシングからはじめるのは、
なかなかに詩的なムードだと思う。


どんな人にも分かるように、冒頭をはじめよ。
この話の本質的なところは何かを把握し、
その周辺に誘導するところからはじめるといい。
出来るならインパクトがあるといいが、なくてもいい。
本質に近づくことが優先だ。
インパクトだけあって本質に近づいていない、うんこガッチャマンを思いだそう。

あなたはその話で何を語るのか。
これから語ることを、静かに語り出せばいいのだ。

(ということは、それが既に客観的に出来ていない限り、
オープニングのオの字も書いてはいけないのだ)
posted by おおおかとしひこ at 11:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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