それで引き込めるかどうかは、
なかなかに難しい。
本来、冒頭というのはそういうことだ。
ツカミなどと簡単に言われたりする。
派手な事件を起こしたりして注目を引くのは、
幼稚なやり方だが有効だ。
しかし本当にこちらの世界に引き込むのは、
その派手な事件のあとからやらなければならない。
何も知らない人に、自分の世界に引き込むにはどうすればいいだろう。
美味しい所をちょい見せするといいと思う。
何も知らない人は、色んな文脈で生きている。
そのどんな人にも分かるような、
分かりやすい事件から引き込むといい。
あるいは本質に近いことを先に言ってしまうとよい。
「ギルバート・グレイプ」では、
ナレーションで既に、この苦しい世界から脱出することという、
作品の本質を語る所からはじめる。
(銀色の車の列を待っている)
色んな文脈で生きている人たちは、
なるほどこれについて二時間見ていればよいのか、
と身構えて、その先がそういう話であることを覚悟する。
どんな人も、これから語るお話に乗り出せること。
冒頭の役目はそれだ。
全員の意識をひとつにして、この先に注目させること。
それは派手な絵もさることながら、
その作品の本質をチラ見せすることがいい。
(本質がド派手な事件ならば、勿論冒頭からド派手な事件を起こせばいい)
つまり、
その作品の本質が出来ていない限り、
冒頭は書いてはいけないのだ。
お話の語り方とされる、三行の原則がある。
これから語ることを語れ。
語るべきことを語れ。
語り終えたことを語れ。
つまり、
前置き、本編、まとめ、
ということになる。
冒頭は前置き、ラストシーンはまとめに相当する。
ただ面白おかしいことを語るだけでは、
語りとしては下手くそだ。
これから語ることを前置きし、
語り終えたらまとめるのがよい。
それは、その話の本質がなんだったか、
という、語り手の認識が客観的になっていないとダメだろう。
「ギルバート・グレイプ」では、
脱出したいほどキツイ世界(ダウン症の弟、動けないほど太った母)
が描かれる。彼の決断については本編を見るとして、
脱出と今ある世界についてのことが、この話の本質であることを、
脚本家は知っているから、
ああいうオープニングとエンディングにしているのだ。
相変わらずロッキーで示せば、
男の惨めな生き方から誇りを取り戻す話であるからこそ、
男の惨めな生き方から話を始めているのである。
色々な文脈で生きている人たちを引き込むのに、
特殊な地下ボクシングからはじめるのは、
なかなかに詩的なムードだと思う。
どんな人にも分かるように、冒頭をはじめよ。
この話の本質的なところは何かを把握し、
その周辺に誘導するところからはじめるといい。
出来るならインパクトがあるといいが、なくてもいい。
本質に近づくことが優先だ。
インパクトだけあって本質に近づいていない、うんこガッチャマンを思いだそう。
あなたはその話で何を語るのか。
これから語ることを、静かに語り出せばいいのだ。
(ということは、それが既に客観的に出来ていない限り、
オープニングのオの字も書いてはいけないのだ)
2015年06月28日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック