と僕は考えている。
物語の力そのものは落ちてないかも知れないが、
物語を受けたり口コミで広げる力が落ちていると考えている。
ネットでバズるのは、
ツイッター程度の文章と、画像リンクだ。
数分程度の動画リンクもあるだろう。
「静止画でインパクトを与えて、
文言でその静止画を説明したもの」が共有されて、跳ねる。
逆に、その形以外のものは、共有され得ない。
物語とは、静止画でもわずかに短い言葉でも、
示せるものでない。
だから、物語はバスらない。
バズる「疑似」物語は、
一枚絵と一行の文言で、引きが強いものだ。
それも主題や世界の強さではなく、
「人気芸能人○○が△△に挑戦!」とか、
「あの○○が、実写化!」などだ。
ここで注意したいのは、
○○が「既知であること」だ。
つまり、既に知っている何かの新しいニュースならば人は安心するのだが、
知らない何かをクリックまたは共有しないのである。
未知への恐れ、未知への無関心、とでも言おうか。
仮にどんなに貴重なもので、
世界を変える素晴らしい物語だとしても、
人は未知のものに手を出すのを憚るのである。
日本は伝統的に、それをタレントCMというやり方で、
人々に馴染ませてきた。
あの○○さんが勧める!というパターンだ。
人気芸能人、モデル、ニコ生主、文化人、キュレーターが薦めれば、
人は安心して未知に飛び込むのだろう。
あるいは、客観的指標もよく使われる。
全米ナンバーワン大ヒット、
泣ける絵本ナンバーワン、
アカデミー賞受賞作品、
本屋大賞などなど。
未知のものに手を触れさせる為に、
既知のところから誘導するということだ。
物語を紹介するとき、
この三種類しかネットにはない。
あらすじやセンタークエスチョンやログラインや、
テーマやモチーフや展開や表現が中心となる、
紹介の仕方やバズり方は、ネットにはない。
あるかもだけど、単なるコピペしかせず、
自分なりに噛み砕く人がいない。
例えば淀川長治は、ずっと自分なりに噛み砕いていた人だ。
そういう人が、ネット時代になっていなくなった。
ネットがないときは、
直接貼りつけられないから、
自分の言葉で説明するしかなかった。
雑誌やテレビのコラム、新聞、クチコミなどで、
自分の言葉で説明するしかなかった。
だから、ひとつの物語に対して、
複数の表現形で紹介されたのである。
これが良かったのだ。
様々な表現のされ方から、合う合わないを読み取る読解力が鍛えられ、
いい悪いを読み取る読解力も鍛えられのだ。
ネットがないから直接喋るか手紙しかない。
だからみんな、自分の言葉で説明するしかなかった。
説明することが、物語とはどういうものかを、
人々に教育してきたのだ。
ネット時代になって、コピペすればよくなった。
自分の言葉で説明すると、間違ってるかも知れないからと恐れるのか、
自分の言葉で説明する人はいなくなり、
ひとつの表現形だけが流布することになる。
そして人は未知のものを避け、既知のものしか理解しなくなる。
これが衰退の原因のひとつであると僕は思っている。
ひとつには、いい物語があっても、既知のものとリンクしないものは流布しないこと。
ひとつには、自分の言葉で説明しなくなったこと。
バズるものを見ていると、
大腸菌の増え方を思い出す。
大腸菌は自己複製でのみ増える。
大腸菌だらけのところは同じ個体が増えたところである。
だから、同じ病原菌にやられるときは、一斉に死ぬ。
大腸菌でない我々は、多様性を持って発達した。
均一化を避けて全滅のリスク回避をし、
多様性が進化を促した。
ネットは大腸菌的な増え方しかしない。
だからいきなりバズりが終わる。
流行すら、デジタルになってしまったようだ。
こういう世界で、物語は力を持つのだろうか。
個々の人が見えているときは力を持つのだけれど、
ネットに接続された途端、
違うものになってしまう気がしている。
2045年にシンギュラリティによってスカイネットが誕生する予定だが(笑)、
彼らはデジタル的にしか物語をコピペしないだろうね。
アナログ的に伝えること。
複数の自分の言葉が流通し、
それらが群れをなすこと。
残念ながら今のネットではそうなっていない。
コピペだけが大腸菌のように増えている。
それをバズとか言っちゃってるマーケターとかは、滅びるがいいさ。
と、いうことで、
今の時代、上にあがるなら、既知のものにリンクを張られることだ。
芸能人と仲良くなるか、
賞を取るしかなさそうである。
(メフィスト賞狙ってたのに、今年から文字制限が…)
2015年06月28日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック