とある話をリライトすることにしよう。
それは、(A、B、C)の三題で書かれた話だとしよう。
どこかいまいちなので、
ひとつの要素を残して、ふたつ新しいものを入れることにする。
新しいリライト版は、
(A、D、E)の三題噺として生まれ変わるはずだ。
ところが、リライトの下手な人は、
(A、B、C、D、E)と、要素をただ足すだけで、
話をややこしくしてしまうのだ。
あるいは、D、Eがたいして面白くなくて、
(A)だけの話になってしまうこともある。
リライトのコツは、
B、Cをきちんと捨てること、
(A、D、E)を、(A、B、C)より面白くすることである。
たまたま偶然(A、B、C)が書けたような、
ビギナーズラックのような話では、
それより面白い話へリライトすることは出来ないだろう。
普段から面白いことを書き慣れていないと、
BCより面白いDEを思いつくことはなかなか難しい。
つまり、リライトのコツとは、
安定して面白いことを思いつけるかどうかだ。
次思いつくものが、
今ある面白いものより面白く出来ないという不安が、
BCを残してしまったり、
伸び伸びしていないDEを生んでしまうのだ。
これはそもそも、「Aを残してあとは捨てよう」という、
判断、決断が合っていたときの話だ。
つまり、リライトには二段階ある。
リライトの方針を決めることと、
実際にリライトすることである。
(正確に現状を評価する、という前段階も含めれば三段階だ)
これが全部うまくいかない限り、
リライトは上手くいかない。
昨今のアホプロデューサーは、方針を適当に決め、
リライトしたのを見てよくないからまた方針を変え、
脚本家が潰れるまでこれを繰り返す傾向にある。
勿論脚本家側のリライトの実力が足りない
(BCを捨てる勇気がない、よりよいDEを思いつけない)
こともあるけど、そもそも間違った方針である可能性はある。
つまりそれは、間違った評価からはじまっていることが多い。
この話はどういう話なのか、
それをどういう話へ書き直すべきなのか、
それは何故なのか。
その辺りの評価を詰めてから、
具体的な方針を決めて、
リライトに入るべきだ。
しかしお互い実力が分からない場では、
やってみるまで分からず、
分かるまで繰り返し、
作品が台無しになっていくことがとても多い。
「いけちゃんとぼく」で言えば、
僕は「さようならドラえもん」であると考えていたが、
「大人のラブストーリー」ととらえる配給サイドと意見が合わなかった。
そもそもそうしてくれ、という話ではじまったわけでもなかったし。
「大人のラブストーリー」とは、
たとえば「恋愛小説家」のような映画のことを言うと思う。
「髪結いの亭主」は、出ているのは大人だけど、
内容は子供のラブストーリーだと思う。
そういう感性自体が合わなかったのかもなあ、と今は思うのみだ。
(僕はいけちゃん自体はストーカー体質で、
実はとても気持ち悪いと思っていた。子供の頃まで来るなよ、と。
それを指摘する女性が一人もいなかったことが、
この問題の根深さを語っている)
大体、(A、B、C)の三題噺だと認識していたら、
(P、Q、R)の三題噺だと考えていた、なんて齟齬すら普通にある。
ともかくそうやって、
世間のリライトされた脚本は確実に悪くなってゆく。
あなただけが、自分の作品を良くする能力がある。
そのように鍛えておくべきだ。
2015年06月28日
この記事へのトラックバック
と、なんだか気持ち悪いと思って検索して辿り着きました。
作品の評価が高くて… 気持ち悪いと言えない世間の雰囲気自体も気持ち悪いです。
問題の根深さというか、日本に蔓延する闇の深さを思いました。
僕は原作の映画化を請け負った側なので、
それを変えるとストーリーの本質を変えてしまうことになるので、
変えませんでした。
それは原作を読んだときから思っていたことではあります。
「見守る」を愛情と思うか、ストーカーと取るかは、
どちらとも取れます。
僕が勝手にアイドルの○○を守りに行ったら、
気持ち悪いと言われるでしょう。
それとも、それでも愛情であるかは文学のテーマかもしれません。
日本の闇を払うには、自らが輝くしかありません。
もっとご自由に意見を言うべきです。
(さすがに世間の態度まで僕は責任がもてませんが)
落ちに関することなので、以後ネタバレ配慮でお願いします。