もう少し書き手の内面に立ち入ると、
美男美女を書きたくなるのは、
自分の劣等感の裏返しだ。
主人公が不細工でも、何故か美女が惚れてくれる。
主人公がブスでも、何故かイケメンがリードしてくれる。
もはや男はいなくて、かわいい子同士がいるだけの世界。
もはや女はいなくて、イケメン同士がいるだけの世界。
僕はこういうのを書いてる人は、半分精神的な病だと思う。
不細工な(または世間から遅れた)自分の劣等感の裏返しで、
願望(それは現実のリアリティーと遠いところ)に託しているだけだ、
という、自分の劣等感と向き合うべきだと考える。
向き合うというのは、過大評価も過小評価もしないことだと思う。
ただ自分はこのような劣等感があるのだと、
自覚することだ。
自分の抱えた劣等感を、他の人はどう昇華しているかを観察しよう。
同族でない、全然違う人と話すのがいい。
今風に言えば、異なるクラスタとしゃべるといい。
そうしているうちに、
他の人は、外見だけでは分からない劣等感を抱えて、
それなりに苦しんでいることも分かってくる。
つまり、あなたの抱えた劣等感と、
形は違うけど同等にあるものだということが分かってくる。
人間の理解とは、そういうことだ。
外面からは、何も分からない。
一見リア充だって、心に闇を抱えている。
劣等感の塊が自分だけではないと、
人の内面に触れて知ることである。
それは直接に話すのが一番だ。
まあ劣等感を抱えているから、他人とうまく話せないのだけど。
表面がきれいな人は、
その表面を維持するだけの劣等感や心の闇があることを知るだけで、
外見だけでは分からない人間の深さを知るだろう。
そこからが人間理解のはじまりだ。
あなたも人間であり、他人も人間であり、
それは表現形の違いだけで、共通の性質があることを知るのだ。
人間をどう理解するかは、
作家の個性である。
あなたがどう人間を理解しているかが、
文学というものだ。
(正確に言うと、どう理解しているかがストーリーの端々から匂う)
美男美女に夢を託しているのは、
まあ10代ならしょうがない。
人生を生きはじめると、美男美女以外の人も面白いと分かってくる。
そこからが、人間の面白さを知るはじまりだ。
美男美女を書いているのは何故か?
ただの願望か?
一通り分かった上で、わざと美男美女で釣っているのか?
釣りはいずればれる。
つまり、美男美女ものは、
願望の共有という、現実逃避の繭でしかない。
子供がそこにいるぶんは何も言わないが、
大人のストーリーテラーなら、
その繭はもういらないだろう。
ブスでもいい女はいる。
不細工でもいい男はいる。
あなたはまだそんな人に会っていないほど、
人生経験が未熟なだけかも知れない。
もう少しだけ書き手の内面に潜ると、
異性を好きになる感情は、
劣等感の裏返しである可能性がある。
足りないものの補充を無意識に求める。
そこに自覚という理性を切り込ませよう。
2015年06月30日
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