前記事の続き。
話の同一性を保ったまま、より完成度を上げることが、
リライトの第一の使命だ。
しかし世間で言う書き直しは、別の話に直すことと、
混同されがちである。
リライトのアイデアは、常に部分で出る。
全体をこう変形してこう変形してこう変毛すると完璧になる、
というリライトのアイデアを出せるのなら、
それはリライトの完成であり、
そう上手く考えられないからこそ、
部分の直しのアイデアが出やすい。
99%はそうだろう。
そのアイデアが何を示唆したものかを考えることは、
アイデアの分類をすることになる。
すなわち、
元の話の同一性を保ったまま、より完成度を上げるものなのか、
話の同一性を異なるものにすること、すなわち、別の話にしてしまうものなのか、
のどちらに属するかを判定することだ。
これを見誤ると、リライトは迷路に入る。
話の同一性を判定する上で、
シチュエーション、ストーリーライン、テーマの同一性を、
必ず確認した方がいい。
これは、
こういうシチュエーションで、
こういうストーリーラインで、
こういうテーマを言わんとした話なのである、
と三行で書いてみて、
直し後のイメージをして、
同一の話なのかを、判定したほうがいい。
同じ話になるなら、よりよくなるぶんにはリライトした方がいい。
問題は、違う話になるときだ。
その場合、同じく違う話の三行を書き下すといい。
そして、ビフォーアフターで判定するのだ。
どちらが面白い話かを。
リライトの動機は、
現状の話がいまいちである、という現状認識である。
だから、それをどうにか変えると良くなるのではないか、
という漠然としたモヤモヤだけが見えている状態だ。
では一体どういう話になれば良くなるのか?
という根本を考えず、
部分のアイデアだけが先に出るものだから、
直すことだけが至上命題になりがちだ。
つまり、直しただけで満足してしまうという現象だ。
山登りに例えれば、頂上を見ずに動いているようなものだ。
現状が良くないから、どっちかに動けばましになる、
と考えてしまうことに似ている。
そっちは下りかも知れないし、
苦労のわりに高さがたいして変わっていないのかも知れないのに。
まず目標を見定めることは、
山登りでもリライトでも同じだ。
違うのは、山頂は見えているが、創作のゴールは見えていないことだ。
だから可視化するのである。
現状はどういう話か。
リライト後はどういう話か。
あるいは、
どういう話になるのが理想か。
部分のアイデアは、それから出すべきなのだ。
素人は、この坂を言ってみようとか、
この縦走を突破しようとか、
見えたものについて言っているだけなのだ。
それは遭難への入り口である。
地図を見る、という当たり前のことをすればよい。
地図がなければつくればいい。
地べたの高さにいないで、鳥の目になればいい。
それは、知性によって可能だ。(勘でも可能)
この話はどういう話か。
リライト後はどういう話になりそうか。
それは同じ話か。違う話か。
そもそもどういう話を目指すべきなのか。
現状の話は何が問題で、何がよくて、
目指すべき話は何がよくて、現状の問題の何が改善されている(はず)なのか。
製品開発とかでは当たり前にありそうな、
このような客観的な議論が、
創作の現場では、創作という幻想のもとに、
曖昧になされている。(もっと芸術的なインスピレーションみたいなものに支えられていると誤解している)
人間の頭が考えて、人間の手が書くものである。
他のものと、大体同じである。
それは、脳の反映である。
そういう当たり前のことで、ものづくりはするのである。
そのときに、
話の同一性を客観的に見る方法がなかなかないので、
前記事を書いた次第だ。
最も基礎的な本質的要素を抽出したつもりだ。
当たり前だけど、リライトの敵は、
客観性を失うことだ。
鳥の目を、いつも持っておきたい。
二度言うが、それは知性によって可能だ。(勘でも可能)
2015年07月03日
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