お喋りや対話と違い、
書き言葉は基本一人だ。
一人でどれくらいまで書けるかが、
結局脚本力を決めるのだ。
ツイッターレベルは、
動物の吠え声やリアクションレベルだ。
(物凄く知性で計算された文章と二択だ)
もう少しまとまった話になると、ブログレベルだ。
しかしブログですら、
まとまった話を書ける人はあまりいないかも知れないし、
毎日書くこともないかも知れない。
まとまった分量を書ける、
というのはそれだけで知性と関係するのかも知れない。
つまり、
まとまった分量を思わなくてはならないし、
まとまった分量に、まとめて書けなくてはならない。
散逸的にではなく、
前提、展開、結末(前ふり、展開、落ち)のように、
因果関係を持った一続きの流れとしてだ。
他人との対話でなく、
あなた一人の中から出てくる何かである。
それは小論文に似ている。
何かのまとまった思考、分析、主張だ。
それが長くなれば論文だ。
そこまでまとまらなくても、日記的な散文で徒然に書く場合もある。
(日本人は日記文化が云々)
さて。
物語は、思考、分析、主張ではないし、エッセイでもない。
それとこれとはまた違う。
ただ、
まとまった分量を思い、
まとまった分量を書くという点では、
小論文や日記の比ではない。
量的には、論文レベルである。
あなたの書き言葉は、
その量だろうか。
二つの要素がある。
まとまった分量を思うことと、
まとまった分量を因果関係で繋がった一続きの流れとして、まとめることである。
思うこと、書くこと、
二つが出来てはじめてその分量が書ける。
思えなければ書く能力があっても書けないし、
思っても書く能力がなければ書けない。
ツイッター、ブログ、日記、小論文、論文。
あなたは、書き言葉において、どのレベルの量だろうか。
思うことと書くことの両方でだ。
普段の書き言葉と、いざというときの書き言葉はまた違うけど、
あなたのスペックとしてだ。
論文を書いたことのある人なら、
物語を書くことは苦ではないだろう。
書く能力については備わっている。
あとは思うだけである。
小論文レベルなら短編まではなんとかなるけど、
その先はしんどい。
短距離走者が長距離走者にコンバートするときと、
同じ苦しみを味わうかもしれない。
自分が、書き言葉としてどの程度の分量を、
思い、書けるかは、把握しておいたほうがいい。
試しに日記を書くのは賛成だ。
書き言葉の量が分かるというものだ。
ブログを書くのもいいかもだ。
余程波乱万丈人生でない限り、
すぐに書くことがなくなってしまうだろうけど。
つまり、物語が書けない人は、
書き言葉の量が書けない可能性がある。
対話でなく、一人で、
因果関係のある一続きの流れとして、
一定以上のことを思い、
一定以上のことを書く、
両方の力が、あるいはどちらかが、
その物語の規模にたいして足りてないのかも知れないのだ。
書く行為は、ある程度知性である。
バカには書けない。
才能で書く人は、その知性が備わってなくても、
バカのまま天然で嗅覚で書いていく。
どういうやり方でも構わない。
才能だけで渡っていけない人が多分ここを読んでいるだろうから、
努力と知性で補うしかないと思う。
あなたはどれくらいまでの分量を、
思い、書く能力がある?
ツイッター、ブログ、日記、小論文、論文。
遠回りかも知れないけど、一度論文を書いてみてはどうか。
あるいは、脚本をただ書き写すという経験もいいかも知れない。
どれくらいの分量を、
まとまって考え、かつまとまって書くかを、
体験してみるといい。
デジタル対話やお喋りばかりしていても、
対人スキルは上がるけど、
書き言葉の能力は上がらない。
書き言葉の能力を上げるのは、
机に向かって一人で集中して書くことだ。
その何万時間もの経験だけが、
あなたの思いと書く力を増幅する。
(注:量であって質のことは言っていない)
物語が書けない人は、
まず自分の書き言葉の、量的スキルを見極めてみるべきだ。
僕はたまさかブログをこれだけ書いている。
つまりそれだけ書く力があるし、
それだけの量を思っている。当たり前だけど。
これだけブログで書きながら、プラス、
一年で更に55万字を書き上げようとしている。
その分量が、思いと書く分量である。
(注:今、量の話で、質は別)
ついでに秘密を言うと、書けば書くほど、書くことが増えるのだけど。
プロになるということは、毎日何かを書く人生になるということ。
量的な関門は、最低クリアしよう。質は別の機会に。
2015年07月06日
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