小説の映画化の失敗の原因のひとつは、
小説の地の文で書ける、概念が、
映画では撮れないことである。
遅ればせながら「紙の月」を見た。
「与えることの優越感」の醜さがいまいち伝わって来なかった。
宮沢りえは、美しすぎる。
概念としての醜さと、絵面の美しさが齟齬を来していた。
行動を醜くするべきだった。
動機を醜くするべきだった。
与えて優越感を感じることの醜さが、
最大限出るような行動をするべきだった。
金遣いがバブル程度では、
主要モチーフである、優越感という醜さを表現出来ていないと感じた。
ミッションスクール時代の中学生の彼女も、
可愛すぎる。
可愛いのに優越感が醜い、という表現に達してなかったところに、
概念を撮れない映画の限界を見た。
どうすれば良かったのか。
「与えて優越感を得ることは、吐き気がする」ような、
行為やシークエンスを描くべきだった。
(財布から五万ばくるのは、小さすぎる)
優越感を、絵で描こうとしたから失敗したのだ。
「ありがとうって言いなさいよ、一言もありがとうって聞いてないわよ」
「ありがとうございます」
「は?聞こえない」
「ありがとうございます!」
「こんだけ用意してあげてんのにそれだけ?」
「今夜はハッスルします!」
「それじゃ男買ってるみたいじゃん!」と池松をホテルのプールに蹴り落とすとか、
そういうベタでもいいから、
調子に乗ってる宮沢りえに吐き気を催したかったところだ。
旅に出る待ち合わせの時、小さく手を振るのではなく、
派手に手をふって醜くやるべきだった。
私のどこが悪いのか分かりません、
という女をぶっとばしたくなるような、
そういう感じを見たかった。
岡崎京子のような狂気が足りなかったような気がする。
それは絵ではなく、具体的なエピソードで表現されるべきだった。
たとえば「彼女は他人に施して優越感を感じる女だった。」
という地の文は、概念だ。
映画は、それを最低ひとつの具体的なエピソードに仕立てあげなければ、
それを描写したことにはならない。
ホテルで跳び跳ねてる「絵」ではダメだ。
大八さんもやきが回ったね。
女流原作女流脚本じゃ、
そのへんの違いを上手く説明することが上手くいかなかったのかもね。
だから淡々とやらざるを得なかったのかもね。
絵作りは美しかったが、
それは醜さを覆い隠して、却って分かりにくくなった。
望遠レンズ中心の絵作りは様式美に行きすぎた。
カラコレも美しすぎた。
もっとワイドレンズでガン寄りして、手持ちはなしで、
人間に近い距離にいたほうが良かったと思うよ。
醜さをスタイリッシュにしすぎたと僕は思う。
醜さを抽象概念にしてしまい、
具体的な血の通った醜さに向き合いきれなかったと僕は見た。
市川準の「トニー滝谷」と同じ遠ざかり方を感じた。
(そういえばどちらも宮沢りえか)
まだ「冷たい熱帯魚」のほうが、醜さの具体に肉薄してたよね。
さて。
この映画のテーマはなんだ?
外国に逃亡すれば自由?
自由は期限つき?
偽善はどこかへ流れてゆく?
どれも言ってないし、言えてない。
つまり、この物語をうまく定着できない。
それは、凡庸だったということだと思う。
2015年07月07日
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