回想形式で子供時代を挟み込む。
あるいは冒頭に子供時代を描き、現在の主人公に。
主人公の現在の性格や背景の説明だ。
その人の特異な人生の理由になる。
それ、なる?
僕はならないと思う。
大抵、役者が違うからだ。
台本や小説の文字上では同一人物だが、
映画の上では同一人物ではない。
同一人物だということにして、以下を見る、
と、一端我に帰る必要がある。
それは、夢中な感情移入を削ぐ。
何故削ぐのか。
それは、説明だからだ。
こういうことがあったから、今こうなのですよ、
という説明だからだ。
人は、説明を基本聞きたくない。
聞きたいのは、その理由がどうしても聞きたいときだけだ。
「紙の月」では、
宮沢りえの過去が挿入され、
父の五万を盗んで募金した事件が描かれる。
「この頃からおかしかった/この頃の問いに答えを得られなかった」
ことが描かれるが、
これは宮沢りえへの感情移入に繋がらない。
僕は、宮沢りえがこの事件を、語るべきだったと思う。
絵による回想ではなく、
本人の言葉で語るべきだったと思う。
その事で本人の異常さ、
何が正常かわからない感じ、
その事を本人が今どう思ってるのかが、まざまざと見えたと思う。
語りが持たないなら絵を入れていいけど、
理想は絵なしで、本人の言葉だけのシーンであるべきだ。
誰かに説明をするときは、
その説明の内容ではなく、
説明についてくる感情が重要だ。
そして、映画とは、説明ではなく感情に訴えるものである。
あのときのあれはこうだったのだ!(回想による説明、驚き)
犯人の手口はこうだ!(回想による説明、納得や驚き)
実はこの頃から好きだったの!(回想による説明、胸キュン)
などなど、
回想による説明は、感情を伴うべきだ。
しかるに、「紙の月」の回想による説明は、
説明に過ぎなかった。
これをどう思えっちゅうねん、という感情だけが残り、
それは宮沢りえへの我々の感情移入には繋がらず、
小林聡美の受けの言葉に繋がっただけだ。
(回想時代の切り返し、現在の切り返しを、
横顔でやったカッティングもまずかった。
正面から撮ることを逃げた感じがした。
正面から撮る、つまり、感情移入を避けた気がした。
その照れはいらないと思った。あそこは、真っ向勝負すべきだ)
僕は、子供時代を挟み込むことで、
現状の異常さを示すことは、
下手なやり方だと思う。
それは、やはり説明でしかないからだ。
一方、僕が愛してやまない「下妻物語」には、
回想時代へのフォローがある。
子供時代の自分とすれ違うシーンだ。
あの頃に憧れられる自分になっているかどうかを問われる、
最重要シーンのひとつである。
つまり、回想時代と現代が絡むのだ。
これならば説明に意味が出てくる。
説明以上の意味が出てくる。
説明は、あ、はい、と聞くしかない。
その間、現在の焦点は止まっていて、推進力を失っている。
(推進力を失っているから、過去からこの先進める力をもらって、
補っている)
つまりそれは、現在進行している出来事が、
弱くて、あまり面白くないことの証明になっている。
(「紙の月」で言えば、横領→別れ→発覚→呼び出し、
の流れがストレート過ぎて、あまり面白くないのだ。
あと捕まって終わり、という詰まらない流れを、
回想挿入で燃料を積みなおし、犯人の自白と兼ねたようにして、
逃走へのターニングポイントにして、
ごまかしたような感じだ。
つまり、過去なしの、現在の流れが面白くないことに変わりはない)
「紙の月」は、リアリティーはある。
ひりひりするような女のリアリティーがある。
それが物語として面白いの?
ということになってしまっている。
この物語は「自分の満足のために5万(3000万)を
盗むのが何故いけないのか」に、答えを出していない。
「人間の集団にとって、裏切りだから」と答えを言っては身も蓋もないから、
それをごまかしているような気がする。
(詰まらない現実の人間たちを裏切ってスカッとしたい、
という大人の暗い欲望の代償行為にはなっている)
さて。
回想は、なんのためにある?
あなたがセットアップしきれなかったことに、
追加するためにあるんでないかい?
その時点で、その情報を入れることは、
物語的に重要か?
あなたの都合じゃないのか?
物語が面白くなる、最高の挿入のタイミング?
そうでなければ、あなたの都合の可能性が高い。
そもそもあなたの物語は、
どういう面白さで、何をテーマとしているの?
それがしっかりできているのなら、回想による追加情報は不要だと思うよ。
2015年07月07日
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