2015年07月07日

「見たいもの」という名詞2

「紙の月」で最も「見たいもの」は、
「与える優越感という醜さ」だと思う。
つまり、回想シーンは二幕に来るべきだった。


この映画のお楽しみポイントは?

金を盗むドキドキ?
若い男に貢ぐ楽しさ?
エスカレートしていく盗み?
発覚?
追求されていくこと?

時系列で並んだ、どこに重点を置くべきだったか。

もし「見たいもの」が、
満足感という歪みなのであれば、
若い男に貢ぐ優越感を、もっと醜く描くべきだ。
宮沢りえは可愛く演じた。
嫌われないように。
その可愛さをも歪みだと思えるように、見せるべきだった。
つまり、回想はここにこそ入るべきだ。

「5万円を盗んじゃないけない理由が分からない。
だってあげることは正しいことよ」とでも、
宮沢りえに言わせるべきだったのではないか?


さあ、そうすると、一幕と三幕に何を持ってくるべきか。
テーマだ。
「日常は退屈だから、脱出すべきだ」を仮に持ってくるなら、
一幕では退屈な夫婦生活と、盗むことの対比を描くべきで、
三幕の対決では、
「勤続25年、退屈じゃなかったですか。
これから本部へいって、退屈じゃないですか」と、
小林聡美に言うべきだった。
「お金がどこから来て、どこへ行くか分かりましたか?」
と、小林聡美に尋ねても良かった筈だ。

それにどう答えるかが、
この話のテーマ(またはアンチテーゼ)となる筈である。


「何が見たいか」を、三幕に持ってくるのは誤りだ。
それは、二幕に持ってくるべきだ。
それを通じて、話をどう決着をつけるかが、
一幕と三幕だ。

この映画は決着がついていない。
だからもやもや発生装置でしかない。

答えのない所に、答えを出すのが怖かったとしか思えない。
ラスト、走って終わりは、「汚れた血」を思い出す。
あれは若かったから成立した。
今日本の大人は、まだ若者で、大人になれていない。

(それがテーマだったのか?
だとすると池松が子供っぽいのは分かる。
しかし、だとすると、女が大人になるということはどういうことか?
という日本の問題へ、もっと切り込むべきだったのではないか?
もっと言うと、女が女であるときは、大人でいられない、
という所に、もっと切り込むべきだったのではないか?
男が欲望を吐き出すときに少年に戻るように、
女が欲望を吐き出すときも残酷な少女に戻ると、
描くべきでなかったか?)
posted by おおおかとしひこ at 10:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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