「紙の月」で最も「見たいもの」は、
「与える優越感という醜さ」だと思う。
つまり、回想シーンは二幕に来るべきだった。
この映画のお楽しみポイントは?
金を盗むドキドキ?
若い男に貢ぐ楽しさ?
エスカレートしていく盗み?
発覚?
追求されていくこと?
時系列で並んだ、どこに重点を置くべきだったか。
もし「見たいもの」が、
満足感という歪みなのであれば、
若い男に貢ぐ優越感を、もっと醜く描くべきだ。
宮沢りえは可愛く演じた。
嫌われないように。
その可愛さをも歪みだと思えるように、見せるべきだった。
つまり、回想はここにこそ入るべきだ。
「5万円を盗んじゃないけない理由が分からない。
だってあげることは正しいことよ」とでも、
宮沢りえに言わせるべきだったのではないか?
さあ、そうすると、一幕と三幕に何を持ってくるべきか。
テーマだ。
「日常は退屈だから、脱出すべきだ」を仮に持ってくるなら、
一幕では退屈な夫婦生活と、盗むことの対比を描くべきで、
三幕の対決では、
「勤続25年、退屈じゃなかったですか。
これから本部へいって、退屈じゃないですか」と、
小林聡美に言うべきだった。
「お金がどこから来て、どこへ行くか分かりましたか?」
と、小林聡美に尋ねても良かった筈だ。
それにどう答えるかが、
この話のテーマ(またはアンチテーゼ)となる筈である。
「何が見たいか」を、三幕に持ってくるのは誤りだ。
それは、二幕に持ってくるべきだ。
それを通じて、話をどう決着をつけるかが、
一幕と三幕だ。
この映画は決着がついていない。
だからもやもや発生装置でしかない。
答えのない所に、答えを出すのが怖かったとしか思えない。
ラスト、走って終わりは、「汚れた血」を思い出す。
あれは若かったから成立した。
今日本の大人は、まだ若者で、大人になれていない。
(それがテーマだったのか?
だとすると池松が子供っぽいのは分かる。
しかし、だとすると、女が大人になるということはどういうことか?
という日本の問題へ、もっと切り込むべきだったのではないか?
もっと言うと、女が女であるときは、大人でいられない、
という所に、もっと切り込むべきだったのではないか?
男が欲望を吐き出すときに少年に戻るように、
女が欲望を吐き出すときも残酷な少女に戻ると、
描くべきでなかったか?)
2015年07月07日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック