2015年07月10日

物語は、神々の遊びか

物語は神話から始まったのか、それは分からない。

人類の初期の頃から神話があったことは確かだ。
それはいまだに伝承されているものもあるし、
伝承の過程で変形したものもあるだろうし、
失伝したものもあるだろう。タイムマシンがない限りそこのところは分からない。

しかし、神話にはある特徴がある。
「我々庶民より遥か上の者の、話」という特徴だ。


これは、
「凄いことを話として伝えたい」
という人の欲望に忠実に従って、
事実が変形していったのだと僕は考えている。

「先代のリーダーがある日谷で蛇を殺した」
ぐらいの話が、
「先祖最強の男が洞穴に住む竜に襲われ、
からくも火を避けて心臓を突いた」
ぐらいの話に盛られ、
「正当なる王家の継承者が、
悪辣なる一族に放逐されて大地をさ迷っていた頃、
町の人々を苦しめる竜の噂を聞き、
それを唯一倒せる伝説の剣を魔の山に取りに行き、
洞穴に住む竜を急襲する。
毒や火の息をかわし、唯一の急所の逆鱗を刺して倒し、
英雄となり、
王位を継承する正統な王を名乗り、
権力を腐敗させた一族を退治し、
現在の平和が作られたのだ」
のように物語化されるだろう。

それが出来がよくて、凄ければ、人の記憶に残り、
さらに尾ひれがついていくだろう。

ポイントは「凄さ」だ。

先代のリーダー→先祖最強の男→伝説の王、
とどんどん凄くなっていく。

蛇→竜→町の人々を苦しめる竜と伝説の剣、
とどんどん凄くなっていく。

つまり、「話をする」という行為は、
「凄い話をする」ということに他ならない、と僕は思う。
これがフィクションの起源であると僕は考えている。

すげえ、すごいやろ、が原点ではないかと。


「凄い話」とは、
今現在の庶民である我々の、平凡な世界ではなく、
「凄い人の話」ということだ。


さあここで、感情移入はいったん忘れる。

凄い話をすることが、話の本質であるとしよう。

とすると、何を凄くすれば話が凄くなる?


凄い人が出てくる。
能力において。体力において。知恵において。勇気において。

凄い敵を倒すのが凄い人だから、凄い敵が出てくる。
能力において。狡猾さにおいて。知略において。
残虐さにおいて。

凄い人が使うものや周りも凄い。
凄い武器。凄い乗り物。凄い仲間。

シチュエーションも凄い。
危険が凄い。果実も凄い。そこに潜む罠や第三者も凄い。


人間関係を暴走族にたとえることは、
本質を抽出するために僕がよくやることだ。
これは暴走族にたとえるなら、
「先代を凄いということに、盛る」ということだ。
伝説の先輩の話を凄いと語ることで、
その場を盛り上げたり、団体の結束を増したり、
その先輩を知ってる俺凄いと思われたかったりするのである。

話は、凄くなければならない。

とすると、リアリティーがそのフィクションを追いかけてくる。
そんな凄い人が本当にいたの?と。

そこで、雲の上の人、
すなわち、神、王族、神に加護を受けた一族、貴族、
などにしてしまう。
リアルな我々と違う人にしてしまうのだ。
やんごとなき人々とは、人でありながら我々と違う階層の者のことだ。
これが神話の正体だ。

現代における神話は、
芸能人、モデルや芸人、芸術家、金持ち、
などが担っている。

神話の人々を、まとめて神とよぼう。
神話とは、すなわち、神々の遊びを描いたものだ。
神がなにかをしたとか、なにかをされたとか、
神にまつわる、ブログ的な日常を書いたものが神話なのだ。
(芸能人ブログはだから、現代の神話である)

さて。

物語は神話ではない。

少年は神話にならない。
最終的になるかも知れないが、
その大部分は神話ではない。

凄い人が凄いことをするのが神話であり、神々の遊びだが、
物語はそうではない。
感情移入するかどうかがその違いだ。

神には感情移入しない。
凄い人と自分を同一視して、あの人みたいだったら、
と憧れることはあるけど、
憧れは感情移入ではない。

物語と神話の決定的な差は、感情移入の有無である。

(これはペプシ桃太郎は所詮神話レベルに過ぎず、
我々の書くべき物語のレベルに達していないことを批評しようとしている)

この話、つづきます。
posted by おおおかとしひこ at 13:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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