子供の頃、欲しかったオモチャがあるだろうか。
ファミコンソフトでもいいし、
自転車とか楽器でもいい。
親が良く分からなくて、
パチモン(良く似た偽物)を買ってきて、
失望した経験があなたにあるだろうか。
あのなんとも言えない失望感を、
なんと表現すればいいのだろう。
オカン間違うなや、だってお母さんよう分からんから、
という会話を、生涯何回人はするのだろう。
母は、僕を喜ばせようと思って僕に買ってきてくれた筈なのだ。
やったあ!ありがとう!びっくりした!
なんで俺がこれ欲しいってわかったんや!オカンさすがや!
という僕の笑顔を楽しみにし、
その後それで遊ぶ僕を見て、
やっぱり高いけど買って良かったわあ、と思う、
未来すら想像したはずだ。
なのに僕は、これじゃないと怒り、
十分にさわりもせず、なんでちゃんと調べへんのや、
と罵りさえしたはずだ。
人はこうやって母親の庇護を自立して行くのかも知れないが、
そのときの悲しそうな母の顔を、僕は忘れられない。
オカンごめんな。
パチモンを掴まされたときの怒り。
本物じゃない悲しみ。
似たようなものだから買ってしまった愚かさへの怒り。
無知への怒り。
無知を騙してしれっとしている者への怒り。
本物にはない、独自の何かに進化していればまだ許せる。
だけど悲しいかな、
パチモンにそのクリエイティビティはない。
その怒りを、
その悲しみを、
ものを買う人ならば誰でも経験しているはずだ。
なのに。
どうして映画を作るときは、
新しい企画を考えるときは、
新製品を作るときは、
何かに似ていなければ安心できないのか?
どうして、
聞いたこともない真新しいアイデアではなく、
何かに似ているからこそ安心して、
ゴーサインの判子が押されるのだろうか?
そういう人は、あの悲しげなオカンの表情を覚えていないのだろうか?
「ごめんね、オカンアホやから、区別がつかなくて」
騙されたオカンが悪いのか?
騙した奴が千倍悪いだろう?
なのに、何故判子を押す奴は、この千倍悪い、悪者になっていることに気づかないのか?
気づかないのか?
分かっててやってるのか?
何かに似ている偽者を世に出すことで、
本物の価値をも貶め、本物の売り上げを掠めとり、
間違えて買う悲劇を生み、
間違えたことに気づかなくてまあこんなもんかという勘違いも生み、
二度と買わなくていいやと信用を失う、
つまり、
何一つ良いことをしてないことに、
気づかないのか?
分かっててやってるのか?
どちらにしても、
それは悪者のすることではないのか?
どうして、
映画の企画書に、何に似ているか書かなければならないのか?
どうして、
今から作るCMのビデオコンテを、既にあるCMや映画から編集して作らなければならないのか?
どうして、
既にヒットしたものを、それに似た感じで作ってくださいというのか?
バカなんじゃないの?
あのオカンの表情を、
あの時の自分の胸の痛みを、
起きた悲劇の馬鹿馬鹿しさを、
それを起こしたやつへの怒りを、
何も覚えてないんじゃないの?
自分が悪者になっていることに、自覚ないんじゃないの?
僕はヒーローになりたい。大人になってもだ。
ヒーロー番組に出てくる、分かりやすい悪者ではなく、
大人になってはじめて分かる、
無知やバカという名の悪者を、倒したい。
どうすれば出来るのかは分からないけど、
面白いオリジナルストーリーがその基盤になることだけは確かだ。
パチモンを増やすな。
それは、似てない何かは信用できない、こわい、
という、企画を読めない者の心理が生む悪である。
何かに似ていなければ企画を通さない奴は、
パチモン買ってしもてごめんね、と謝るオカンの表情を、
思い出すがいい。
自分がその悲劇を起こす、渋滞の先頭にいることを知るといい。
2015年07月10日
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