2015年07月11日

物語は、神々の遊びか2

(前記事までのダイジェスト)
人は話を凄くしたがる。
神話は、小さな話を凄く語っているうちに、
尾ひれがついて「神」になってしまったもの。
現代の神話は、たとえば芸能人ブログだ。

神話は「凄い」という感情前提。
だから「神」は我々庶民ではない。

物語は、神話ではない。
両者の差は、感情移入の有無である。

(ここから本編)

物語は、感情移入できなければ面白くない。

感情移入については沢山の誤解があり、
このブログではひとつひとつ、
丁寧にことほいで来たつもりである。


感情移入は、「他人である」主人公(および他の人物)の気持ちや行動が、
まるで「自分のように」感じることだ。

感情移入は好きという感情ではない。
好きとか憧れは他人に起こり、自分には起こらないものだ。
(ほとんどの人は自分が嫌いだ)

感情移入は、最初は他人だった筈の主人公に起こる。
他人の事情や感情や行動を見ているうちに、
まるで自分事のように、感情をわけあうことだ。

好感、共感、同情などが入口になることもあるが、
必ずしもそれは必要ない。

何故なら、自分と全く違う立場、性格、目的、事情だとしても感情移入は起こるからだ。

物語は、全く違う多くの人が見るものだ。
全員の共通点はない。
ないのに、全員を感情移入させるのが正しい感情移入だ。

好感、共感、同情は自分と近いクラスタにしか起こらないため、
これを足掛かりにした感情移入は、多くの観客を巻き込めない作品になる。
だから間違った感情移入である。

感情移入は、そもそも自分と全く違う人に起こる。
そのように観客をコントロールするのが、優れた物語である。

最初は、陥ったシチュエーションへの興味だ。
次に行動と目的、つまりその先への興味だ。
「そのシチュエーションに陥ったら誰もがそうするだろうこと」
を、主人公はする。
そうして、多くの人が興味を持つのだ。
この異常なシチュエーションからの脱出に。

このあと、何十分もかけて主人公の行動を追い、
そのうち彼の内面が分かってくる。
そこに、多くの人は
「自分と同じ(またはこの人の立場なら自分も同じことを思う)」
と思い始める。
このあたりで、主人公と観客の同一化が起こる。

感情移入の完成は、カタルシスで終わる。

主人公は弱点や内なる渇きを抱えている。
それが、事件を解決することで解消し、
新たな自分に生まれ変わる。(成長、メタモルフォーゼ)
その時、主人公と同一化していた観客は、
昔の自己の死と新たな自己の生まれ変わりを体験する。
これがカタルシスである。
成長した主人公、カタルシスを味わった観客は、
二度と同じ失敗を繰り返さないだろう。
何故なら、成長したからだ。
つまり、体を使って何かを真に学んだからだ。
その何かをあえて言葉にしたものが、テーマだ。


感情移入は、これらの一連がセットとしてないと成り立たない。
どれかひとつが欠けても駄目だ。


自動的に、神話には感情移入出来ない。

神話とは「凄い」人の話であり、
その凄さを競うのであり、
凄い人は我々と違う天上人であり、
その人の中に我々と同じものを見ることはないからだ。


スーパーヒーローものが難しいのは、
スーパーヒーローを神話(凄い人、凄い他人)として描いてしまい、
物語(感情移入の対象になる人)として描きにくいからだ。
(失敗の典型例:スーパー糞ドラマ「サムライコード」)

また、感情移入を浅く理解すると、
観客に近い職業、性格、暮らしぶり、美男美女でない、
などの外面を選びがちだ。
そうではない。
感情移入は、自分と違う人に起こらなければならない。
自分と同じだと思うのは、内面にである。
人を外見でしかとらえられない浅い奴が書いた話は、
内面を書くほどの実力がないから、
庶民が庶民の中で何かする、ちまちました話になる。
せいぜい小さなラッキーを得た人、ぐらいの話になる。
それは感情移入への理解が浅い。
内面に感情移入しなければならない。

しかし小説と違って、映画は人の内面を写すことが出来ない。
カメラに写るのは、その人の行動だ。
(台詞で自分の内面を説明するのは下策であり、説明台詞といわれる)
勿論仕草でもない。
その人の行動がその人の内面を語らなければならない。

だから難しいのである。
(簡単な例をみっつほど:
最初は拒否したり喧嘩していたのが、
ある事件をきっかけに話を聞くようになる。
表面上はにこやかにしているが、それは感情を隠した嘘だ。
ある小道具で何かを象徴させ、そのことについての行動で態度を示す)



さて、ようやく本題。

神話と物語の違いは、
他人の話か、他人の話なのに自分のように思うことかの違い。
つまり、感情移入のナシアリだ。

好きとか、凄いとか、カッコイイとか、憧れは、
全て神話への感情だ。

あれはまるで俺だとか、分かるとか、
頑張れとか、どうなっちゃうんだ心配だとか、
どうして世の中はこうも理不尽なんだとか、
成功するか失敗するか緊張して胸が張り裂けそうとか、
あああ!とかは、
全て物語への感情だ。

(※優れた物語は、主人公だけでなく、
複数の登場人物に感情移入させる。
例:ラブストーリーは男女双方に感情移入させる)


実は、優れた物語は、神話も物語も両方の感情を取り込んで、
神話も物語も楽しませる。
僕はスーパーヒーローものが大好きだが、
それはその融合を果たしているからだ。

サムライミ版スパイダーマン1、2、キックアス1、ブレイド1、
ルパン三世カリオストロの城、ドラマ風魔の小次郎は、
その中でも指折りの傑作である。

007シリーズは神話でしかない。

ボーイズオンザラン(映画版、漫画版青山編まで)は、
庶民の話で神話を作ろうとしてこけた大失敗だ。

少年ジャンプは庶民が神話の世界に紛れ込み、
何故か最強を目指す話になる。
その時に、主人公補正以外の合理的な理由があれば、それは傑作になる。
(「誰よりも努力するから」か「最強の遺伝子の発現」に
たいてい集約されがちで、僕が80年代ジャンプに夢中になって、
90年代に飽きたのはそれが理由だ)


ようやく本題だ。

ペプシ桃太郎シリーズは、
ちっとも感情移入が出来ない、
「すげえ」の神話だ。

神話をストーリーとは僕は認めない。

だから糞だ。

(007シリーズは映画ではなく、アトラクションである。
スカイフォールが一瞬良かったのはMの死であり、
ボンドが良かったわけではない)


神話は、結局オレツエーの世界なのだ。

数分に何億もかけて、チンコ自慢だけやってやがれ。
しかもネット時代に、国内最強なんてどうでもいい範囲でチンコ自慢をしてるのが、
ちいせえわ。
posted by おおおかとしひこ at 12:58| Comment(3) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
「ボーイズ・オン・ザ・ラン」の作者は「宮本から君へ」からの影響を受けてると言っているらしいですね。
確かに結構似ているところが多いなと個人的には思いました。
Posted by kentya at 2017年03月07日 18:26


>kentyaさん
>
>「ボーイズ・オン・ザ・ラン」の作者は「宮本から君へ」からの影響を受けてると言っているらしいですね。
>確かに結構似ているところが多いなと個人的には思いました。
Posted by おおおかとしひこ at 2017年03月07日 22:26
kentya様コメントありがとうございます。

ボーイズオンザランは、
ボクシング編はなにも面白くなかった。

鼻水たれたりしながら叫ぶ、
みっともない男は、たしかに宮本のほうが先だったことよ。
でもそういう姿は70年代のドラマには沢山あったしなあ。
映画版はほんとうにひどかったですねえ。
Posted by おおおかとしひこ at 2017年03月07日 22:30
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