(前記事までのダイジェスト)
人は話を凄くしたがる。
神話は、小さな話を凄く語っているうちに、
尾ひれがついて「神」になってしまったもの。
現代の神話は、たとえば芸能人ブログだ。
神話は「凄い」という感情前提。
だから「神」は我々庶民ではない。
物語は、神話ではない。
両者の差は、感情移入の有無である。
(ここから本編)
物語は、感情移入できなければ面白くない。
感情移入については沢山の誤解があり、
このブログではひとつひとつ、
丁寧にことほいで来たつもりである。
感情移入は、「他人である」主人公(および他の人物)の気持ちや行動が、
まるで「自分のように」感じることだ。
感情移入は好きという感情ではない。
好きとか憧れは他人に起こり、自分には起こらないものだ。
(ほとんどの人は自分が嫌いだ)
感情移入は、最初は他人だった筈の主人公に起こる。
他人の事情や感情や行動を見ているうちに、
まるで自分事のように、感情をわけあうことだ。
好感、共感、同情などが入口になることもあるが、
必ずしもそれは必要ない。
何故なら、自分と全く違う立場、性格、目的、事情だとしても感情移入は起こるからだ。
物語は、全く違う多くの人が見るものだ。
全員の共通点はない。
ないのに、全員を感情移入させるのが正しい感情移入だ。
好感、共感、同情は自分と近いクラスタにしか起こらないため、
これを足掛かりにした感情移入は、多くの観客を巻き込めない作品になる。
だから間違った感情移入である。
感情移入は、そもそも自分と全く違う人に起こる。
そのように観客をコントロールするのが、優れた物語である。
最初は、陥ったシチュエーションへの興味だ。
次に行動と目的、つまりその先への興味だ。
「そのシチュエーションに陥ったら誰もがそうするだろうこと」
を、主人公はする。
そうして、多くの人が興味を持つのだ。
この異常なシチュエーションからの脱出に。
このあと、何十分もかけて主人公の行動を追い、
そのうち彼の内面が分かってくる。
そこに、多くの人は
「自分と同じ(またはこの人の立場なら自分も同じことを思う)」
と思い始める。
このあたりで、主人公と観客の同一化が起こる。
感情移入の完成は、カタルシスで終わる。
主人公は弱点や内なる渇きを抱えている。
それが、事件を解決することで解消し、
新たな自分に生まれ変わる。(成長、メタモルフォーゼ)
その時、主人公と同一化していた観客は、
昔の自己の死と新たな自己の生まれ変わりを体験する。
これがカタルシスである。
成長した主人公、カタルシスを味わった観客は、
二度と同じ失敗を繰り返さないだろう。
何故なら、成長したからだ。
つまり、体を使って何かを真に学んだからだ。
その何かをあえて言葉にしたものが、テーマだ。
感情移入は、これらの一連がセットとしてないと成り立たない。
どれかひとつが欠けても駄目だ。
自動的に、神話には感情移入出来ない。
神話とは「凄い」人の話であり、
その凄さを競うのであり、
凄い人は我々と違う天上人であり、
その人の中に我々と同じものを見ることはないからだ。
スーパーヒーローものが難しいのは、
スーパーヒーローを神話(凄い人、凄い他人)として描いてしまい、
物語(感情移入の対象になる人)として描きにくいからだ。
(失敗の典型例:スーパー糞ドラマ「サムライコード」)
また、感情移入を浅く理解すると、
観客に近い職業、性格、暮らしぶり、美男美女でない、
などの外面を選びがちだ。
そうではない。
感情移入は、自分と違う人に起こらなければならない。
自分と同じだと思うのは、内面にである。
人を外見でしかとらえられない浅い奴が書いた話は、
内面を書くほどの実力がないから、
庶民が庶民の中で何かする、ちまちました話になる。
せいぜい小さなラッキーを得た人、ぐらいの話になる。
それは感情移入への理解が浅い。
内面に感情移入しなければならない。
しかし小説と違って、映画は人の内面を写すことが出来ない。
カメラに写るのは、その人の行動だ。
(台詞で自分の内面を説明するのは下策であり、説明台詞といわれる)
勿論仕草でもない。
その人の行動がその人の内面を語らなければならない。
だから難しいのである。
(簡単な例をみっつほど:
最初は拒否したり喧嘩していたのが、
ある事件をきっかけに話を聞くようになる。
表面上はにこやかにしているが、それは感情を隠した嘘だ。
ある小道具で何かを象徴させ、そのことについての行動で態度を示す)
さて、ようやく本題。
神話と物語の違いは、
他人の話か、他人の話なのに自分のように思うことかの違い。
つまり、感情移入のナシアリだ。
好きとか、凄いとか、カッコイイとか、憧れは、
全て神話への感情だ。
あれはまるで俺だとか、分かるとか、
頑張れとか、どうなっちゃうんだ心配だとか、
どうして世の中はこうも理不尽なんだとか、
成功するか失敗するか緊張して胸が張り裂けそうとか、
あああ!とかは、
全て物語への感情だ。
(※優れた物語は、主人公だけでなく、
複数の登場人物に感情移入させる。
例:ラブストーリーは男女双方に感情移入させる)
実は、優れた物語は、神話も物語も両方の感情を取り込んで、
神話も物語も楽しませる。
僕はスーパーヒーローものが大好きだが、
それはその融合を果たしているからだ。
サムライミ版スパイダーマン1、2、キックアス1、ブレイド1、
ルパン三世カリオストロの城、ドラマ風魔の小次郎は、
その中でも指折りの傑作である。
007シリーズは神話でしかない。
ボーイズオンザラン(映画版、漫画版青山編まで)は、
庶民の話で神話を作ろうとしてこけた大失敗だ。
少年ジャンプは庶民が神話の世界に紛れ込み、
何故か最強を目指す話になる。
その時に、主人公補正以外の合理的な理由があれば、それは傑作になる。
(「誰よりも努力するから」か「最強の遺伝子の発現」に
たいてい集約されがちで、僕が80年代ジャンプに夢中になって、
90年代に飽きたのはそれが理由だ)
ようやく本題だ。
ペプシ桃太郎シリーズは、
ちっとも感情移入が出来ない、
「すげえ」の神話だ。
神話をストーリーとは僕は認めない。
だから糞だ。
(007シリーズは映画ではなく、アトラクションである。
スカイフォールが一瞬良かったのはMの死であり、
ボンドが良かったわけではない)
神話は、結局オレツエーの世界なのだ。
数分に何億もかけて、チンコ自慢だけやってやがれ。
しかもネット時代に、国内最強なんてどうでもいい範囲でチンコ自慢をしてるのが、
ちいせえわ。
2015年07月11日
この記事へのトラックバック
確かに結構似ているところが多いなと個人的には思いました。
>kentyaさん
>
>「ボーイズ・オン・ザ・ラン」の作者は「宮本から君へ」からの影響を受けてると言っているらしいですね。
>確かに結構似ているところが多いなと個人的には思いました。
ボーイズオンザランは、
ボクシング編はなにも面白くなかった。
鼻水たれたりしながら叫ぶ、
みっともない男は、たしかに宮本のほうが先だったことよ。
でもそういう姿は70年代のドラマには沢山あったしなあ。
映画版はほんとうにひどかったですねえ。