2015年07月11日

変化の点から桃太郎キジ編を批判してみる

ストーリーは時間軸をもつ。
時間とは、変化のことである。
変化がないものを、写真とか彫像などという。

物語とは、時間軸の変化を描いたものだ。
特に、主人公の変化を描く。
外見の変化を描くのは、変身ものやメイクだろう。
しかし人間の真の変化は、外見の変化でなく内面の変化だ。
それを描く物語を人間ドラマといい、
僕は物語の中で最もおもしろい、文学であると思っている。

桃太郎キジ編は、キジの内面の変化は描かれてはいない。
悲しんだだけである。
(犬は、あの拘束具を身につけるという外見の変化はあったが、
それが内面の何の変化を現すのか微妙だ。
復讐の決意程度であり、小さな変化すぎる)


しかも、それが「自分より強い奴を倒せ」というテーマを暗示しない。
内面の変化がテーマを暗示するのものが、人間ドラマである。
キジは悲しんだ。自分より強い奴を倒した。
それだけだ。
外面的には悪落ちした兄を殺したが、
キジの内面は終始愛に満ちているだけで、
内面の変化をしていない。

だからキジ編は人間ドラマではない。
脚本的には0点である。
posted by おおおかとしひこ at 13:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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