2015年07月16日

三色団子

CMでやりがちなミスのこと。

全然違うものを編集したとき、
同じ一本に見えず、
たとえば三本に見えてしまうこと。

一本の団子に見えるようにしよう。
三色団子じゃダメだ。

にも関わらず、同じ一本の中で、バラエティーを持つべきだ。
みたらし団子では飽きてしまう。

つまりどうすればいいか。


なにかを統一することだ。

絵を統一する。
別々の場所、文脈でも、
カラコレをきちんとやって、絵面を整える。
これによって、作者が同一であり、
その中でのバラエティーなのだと分かる。

音楽で一気通貫する。
一番よくあるけど、
音楽の展開に合わせればいい。
同じ楽器と同じテンポが奏でる展開なら、
作者が同一であり、その中でのバラエティーなのだと分かる。


では脚本では?

主人公?
世界観?
人間関係?

否だ。

主人公は次々と変化する。
感情や状況や行動はバラエティーに富み、
さながら幕の内弁当だ。
それどころか、最初と最後で変化という成長を遂げる。

世界観も固定ではなく変化する。
最初に設定したものがどんでん返しされたり、
序に対する破とは、どんどん前提を崩して展開することだ。

人間関係も変化する。
敵が味方になったり、別れたり付き合ったり、
裏切ったりする。

じゃあ何が統一感を保ち、
同一の作者による同一の物語だと思わせるのか?


目的だ。


主人公の目的こそ、
きっかけのシーンから、
解決の瞬間まで、
同一なのである。


厳密には、細かく変わる。
ロッキーなら、
ロッカーに鍵がかけられていて文句を言いにいく、とか、
エイドリアンをデートに誘う、とか、
特訓のため早起きする、とか、
小さな目的は場面場面で変わる。
これを焦点という。
お話は、この小さな焦点を追い続けることで成り立つ。
それが変わるのがターニングポイントだ。
小さいターニングポイントは小さい焦点が変わり、
大きいターニングポイントは大きい焦点が変わる。

小さい目的はころころ変わる。
むしろ状況や文脈がころころ変わるべきだ。
そのバラエティーこそが物語だ。
しかし三色団子にならないためには、
それを大きな目的で統一するのである。

ロッキーのその大きな目的は?
「試合に勝つこと」?
違う。
「俺が俺であると証明したいこと」だ。
それが、一世一代の大舞台で証明しなければならない物語が、
ロッキーというおはなしだ。
ロッキーとは、
「俺が俺であることを、
一世一代の大舞台で証明しなければならない話」なのだ。
リアルではこんなチャンスはない。
人によっては、その大舞台が、
受験だったり、結婚式だったり、送別会の幹事だったりする。
甲子園の決勝やオリンピックの決勝が何故あんなにドキドキするかと言えば、
ほとんどの人には経験できない、
マックス大舞台だからである。

ロッキーは、一介の中年ボクサーが、
偶然その大舞台を与えられる話である。
リアリティーはない。ないけどありそうかも知れない。
その絶妙の嘘とほんとの間の嘘が、
この物語がドキュメント(本当の世界にある、誰も知らない真実を暴くこと)ではなく、
フィクションの物語(嘘の世界で真実を語ること)
であることを示している。



三色団子だ。
物語はなるべくバラエティーを持ち、
紆余曲折や起伏があって当然だ。
全ては変化する。同じであり続ける者は死ぬ。
だが、三色団子ではいけない。
同一の作者による同一の物語である、
確かな証拠が必要。

それが、目的である。



目的は、きっかけのシーンから解決の瞬間まで、同一である。
きっかけの以前のシーンをオープニングや設定部分、
解決の瞬間以降のシーンをエンディングや後日談という。
オープニングは、以降に必要なものの準備だ。
エンディングは、目的を達成したことにどんな意味があったかを暗示する。
(それまでにテーマが暗示されていれば落ちをつけるだけでもよい)

ロッキーの目的は、一切画面には出てこない。
次々に変わるリアクションや行動から察するのみだ。
それを読み取ることが、物語を楽しみのひとつだ。

目的がぶれていたら、
読み取れないから、詰まらないのだ。


目的はひとつ。(そして言ってはだめだ)
焦点は随時変える。

それが、物語だ。
posted by おおおかとしひこ at 12:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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