短編は、そのイメージとか、
テーマや、気持ちや、瞬間の切り取り方が大事だ。
それは多分プロットより優先だろう。
短編小説だろうが、俳句だろうが、
CMだろうが、ショートフィルムだろうが、
ワンフレーズのCMソングだろうが、
それは同じだと思う。
ちゃんと構えてお話を最初から最後まで受けとり、
変化から人生の意味を読み取って味わうというより、
ふっと心の隙間に入ってきたり、
その瞬間に永遠を感じたり、
ただただ可愛いとかカッコイイとか、驚きとかの、
ひとつの感情だったりする。
僕らの時代はそういうのを雑誌文化といってバカにしたものだが、
今雑誌文化ではないし、雑誌は捨てる手間が必要。
つまり、雑誌よりも手軽に捨てられる、
目の前を通りすぎる一枚絵が短編だ。
(だから数見られるし、好きなものをポストカードのように、
保存も出来る)
今、世界が短編化しているような気がして仕方ない。
デジタルのせいなのか、アンドゥ思想が浸透したからか、
やり直しのきかない長いスパンで何かをやることに、
価値が見いだされていないような気がする。
つまり、物語が必要とされていない。
いや、物語は必要とされているが、
産業としての物語が、力を失っているというか。
CMではストーリーものが殆どなくなった。
(ペプシはストーリーものではない。一枚絵だ)
先日まで企画していたCMも、ストーリーものではなく一枚絵ばかりをプレゼンすることになった。
クライアントが理解できないからだ。
映画の企画書も、
ストーリーを書くのではなく、
わかりやすい一枚絵が要求され、
そこに群がる人が多いゆえに、
ストーリーが蔑ろにされている。
制作側にこういう人が増えていては、
アウトプットも知れている。
受けとる側の人たちは、
物語を深層心理では欲していると思うのだが、
それを言葉にすることができず、
目の前のポストカードから、選ぶしか出来ない。
だから、詰まらないポストカードばかりになったテレビを捨てようとしている。
世界が短編化している。
人間が短編化しているかどうかは分からないが、
産業としての物語が、短編化している。
それは、底の浅い、ガワだけは美しい、
スカスカのものが量産されるということだ。
ペプシ桃太郎がその象徴だ。
あなたは脚本家である。
作劇者であり、ストーリーテラーである。
変化を最終的に描くために、
最初の状況を逆からはじめて、
事件とその解決過程において、
人間の真理に迫る何かを描く。
しかし、それは、短編化している世界からは理解されないだろう。
理解のさせ方がある。
短編だと思って、
たったひとつの代表的場面を切り出すのだ。
それがその作品のテーマを象徴するのが理想だけど、
それよりも絵として強い方を優先する。
それが、数多あるポストカードに比肩すれば、
それは採用の可能性がある。
つまり、制作側をキレイに騙して、
ちゃんとした話を作るのである。
つまりあなたは、
二段階の才能を磨かなくてはならない。
作劇そのものを傑作とすること。
それをポストカードのふりをすること。
短編は描写だ。
描写を上手くなろう。
文章力、絵を描く力。
どうせ(ほとんどの)人はプロットを理解できない。
ならば短編の描写で、騙してしまえ。
そのあと、ばれないように物語を語れ。
(ポストカードになるのは、冒頭のきっかけか、
テーマを象徴するラストシーンが、理想である)
2015年07月18日
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