2015年07月18日

短編は描写だ

短編は、そのイメージとか、
テーマや、気持ちや、瞬間の切り取り方が大事だ。
それは多分プロットより優先だろう。


短編小説だろうが、俳句だろうが、
CMだろうが、ショートフィルムだろうが、
ワンフレーズのCMソングだろうが、
それは同じだと思う。

ちゃんと構えてお話を最初から最後まで受けとり、
変化から人生の意味を読み取って味わうというより、
ふっと心の隙間に入ってきたり、
その瞬間に永遠を感じたり、
ただただ可愛いとかカッコイイとか、驚きとかの、
ひとつの感情だったりする。

僕らの時代はそういうのを雑誌文化といってバカにしたものだが、
今雑誌文化ではないし、雑誌は捨てる手間が必要。
つまり、雑誌よりも手軽に捨てられる、
目の前を通りすぎる一枚絵が短編だ。
(だから数見られるし、好きなものをポストカードのように、
保存も出来る)



今、世界が短編化しているような気がして仕方ない。

デジタルのせいなのか、アンドゥ思想が浸透したからか、
やり直しのきかない長いスパンで何かをやることに、
価値が見いだされていないような気がする。

つまり、物語が必要とされていない。
いや、物語は必要とされているが、
産業としての物語が、力を失っているというか。


CMではストーリーものが殆どなくなった。
(ペプシはストーリーものではない。一枚絵だ)
先日まで企画していたCMも、ストーリーものではなく一枚絵ばかりをプレゼンすることになった。
クライアントが理解できないからだ。

映画の企画書も、
ストーリーを書くのではなく、
わかりやすい一枚絵が要求され、
そこに群がる人が多いゆえに、
ストーリーが蔑ろにされている。

制作側にこういう人が増えていては、
アウトプットも知れている。

受けとる側の人たちは、
物語を深層心理では欲していると思うのだが、
それを言葉にすることができず、
目の前のポストカードから、選ぶしか出来ない。

だから、詰まらないポストカードばかりになったテレビを捨てようとしている。


世界が短編化している。

人間が短編化しているかどうかは分からないが、
産業としての物語が、短編化している。

それは、底の浅い、ガワだけは美しい、
スカスカのものが量産されるということだ。
ペプシ桃太郎がその象徴だ。



あなたは脚本家である。
作劇者であり、ストーリーテラーである。
変化を最終的に描くために、
最初の状況を逆からはじめて、
事件とその解決過程において、
人間の真理に迫る何かを描く。

しかし、それは、短編化している世界からは理解されないだろう。

理解のさせ方がある。
短編だと思って、
たったひとつの代表的場面を切り出すのだ。

それがその作品のテーマを象徴するのが理想だけど、
それよりも絵として強い方を優先する。

それが、数多あるポストカードに比肩すれば、
それは採用の可能性がある。
つまり、制作側をキレイに騙して、
ちゃんとした話を作るのである。


つまりあなたは、
二段階の才能を磨かなくてはならない。

作劇そのものを傑作とすること。
それをポストカードのふりをすること。


短編は描写だ。
描写を上手くなろう。
文章力、絵を描く力。

どうせ(ほとんどの)人はプロットを理解できない。
ならば短編の描写で、騙してしまえ。
そのあと、ばれないように物語を語れ。
(ポストカードになるのは、冒頭のきっかけか、
テーマを象徴するラストシーンが、理想である)
posted by おおおかとしひこ at 15:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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