2015年07月23日

納得して書くこと

例えば悲しい場面。
「ここは悲しい場面だから、
一人一人の悲しみを描こう。ま、こんな感じで悲しい場面になるだろう」
と書いてはいけない。
あなた自身が泣けて泣けてしょうがなくて、
正常な判断力を失うほど物語にもってかれるものを書こう。


あなたの中の、心からの納得が大事だ。

トリックが暴かれるなら、
「あれおかしくね?」という所が一つもあってはならない。
自分すらも「そういうことだったのかあ!」と驚くトリックを思いつくこと。

怒る場面なら、
腹立って腹立ってしょうがない状況をつくること。

愛し合う場面なら、
本当にお互いが大切だという文脈をつくること。


あなたの思い込みで表現するのではない。
ただ点で号泣して悲しい、
というのが素人だ。
そこに至る線がその号泣の為に準備してあるから、
誰もが確実に泣けて、
尚且つあなたが本気で号泣しながら書くから、
みんなその感情に持っていかれる。

物語とは、全員がそこで同じ気持ちになり、
途中でも同じ気持ちになり続けることである。


泣けるシーンを書いてるとき、いまいち泣けないなあと感じるなら、
みんなもいまいち泣けないなあと思っている。
その泣きが滑っている。
ということは、そこに至るまでをもっと泣けるように組み立て直さなくてはならない。

いまいちだなあと思うときは、
執筆中にもあるし、
リライトしようと思って改めて読んでいるときにもある。
想定してたのに足りてないと。

その感覚は正しい。
いやー泣けるわーという自己満足ではなく、
ほんとに泣けるのか?と疑いを持って自分の原稿を見られている証拠だ。
それは、ほんとに泣けるのか?と疑いを持ってその映画を観始める人と、
同じ見方だからだ。

それは爆笑でも、驚きでも、知的興奮でも、
恐怖でも、ワクワクでも、ヒリヒリでも、
ハラハラでも、カッコイイでも同じだ。

疑いを持って見ていてもなお、持ってかれるものを作るのが正解だ。

それを作るのは、あなた自身が厳しい観客として、
納得しなければならない。


最も面白い話を書く人は、
最も厳しい批評家なんじゃないかなと、僕は思う。
(最も厳しい批評家が、最も面白い話を書けるわけではない)


あなたが、
あらゆる角度から検討して、
思い込みなどとっくに捨てて、
この状況なら誰もが○○となる、
という唯一解しかないようなものを作れたら、
その時、みんなが○○となるだろう。

そこまでとことん納得して作ることだ。

涙を流す場面を適当に書いて泣けるわーとか言ってる輩は、
考えの浅いただの初心者だ。



(またてんぐの話になるけど、
50話のシンイチの心からの絞り出しを書くのはとても辛かった。
しかしそれこそがここから始まるクライマックスの原動力になる。
あそこはここまで読んできた人なら、誰もが同じ感情になる部分。
勿論、僕が一番辛いのであり、
なおかつ天狗の力に意味はあると思え、
なおかつ天狗の力に意味があるのかと思えるように、
話を組んでいる)
posted by おおおかとしひこ at 11:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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