前も書いたような気がするけど。
小説は五感が使える。映画は二感だ。
明日発表予定のてんぐ探偵46話(妖怪いまさら)から。
路線バスが霧に包まれる話である。
停車したあと、
この不思議な現象を確かめようと、
乗客の一人、千葉が窓を開ける。
「夏なのにひんやりした」霧だと分かる。
これは映画には表現できない。
初出の不可解な現象があったら、
人は五感でそれを把握しようと思うものだ。
目で見、耳で聞く以外にも、
触って、匂いを嗅いで、舐めてみることもあるだろう。
その五感で更にリアルに感じることは、よくある。
(逆に、小説入門では、
五感による描写を使えと教えられる)
匂いにはボキャブラリーがないから、
触覚が最もよくある。
硬い柔らかい、モフモフ、熱い冷たい、
ごつごつしている、尖った、痛い、異が痛い、
眩しくて目が痛い、宙に浮くような、ざらついた、じゃりじゃりしてる、
異常な振動、体がスイングする、ベルベットのような手触り、
滑らか、とげとげしい、規則的な鱗の感触、ぬるぬる、
異に鉄棒を突っ込まれたような違和感、吐き気、めまい、
などは、温度感覚や三半規管も含めた、触覚全般だ。
それは、視覚と聴覚とは別次元の理解だ。
ものごとを理解するとき、
見た目と音以外での理解がはやいときもある。
おっぱいのよさは、ビジュアルよりも音(たぷたぷ?)よりも、
さわり心地(つかみ心地)だ。
例に出した霧の描写は、
白いとか静かだという視覚聴覚の描写よりも、
一段別次元での理解を深める。
こういうときに映画は不利だ。
概念を、視覚と聴覚と説明台詞で、補完しなければならないからだ。
おっぱいのつかみ心地は、映像では伝えられない。
この話を映像化するとき、
夏なのにひんやりした、怪談のような感覚は伝えられない。
(絵のトーンで寒色系にするとか、
霧を感じて冷たくて首をすくめる、などの補助的な表現は可能)
つまり、映像で伝えられる感覚は、
小説で伝えられる主観的感覚より、狭いと思う。
(逆に映像で出来て小説には出来ない感覚もある。
リズミカルなものとか、人間の目ではないカメラならではの動きなどだ。
しかし感覚空間の大きさでは、小説のほうが豊かだと思う)
2015年07月20日
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