CG資料用に「テッド」を見た。
途中まですごくよくて、資料を忘れて夢中で見た。
クライマックス、ちぎれた綿に叫んだ。
しかしラストのつまらなさと言ったら!
第二ターニングポイントの直前、
「あいつは雷を怖がらない男になる」で、
号泣した俺の涙を返せ!
映画はラストで決まる。
それは結局なんだったのか、が決まるからだ。
(以下ネタバレ)
頭からクライマックスまで、
「少年が大人になる」物語のテンプレ満載だ。
少年時代からのぬいぐるみの友達、
(雷友達の約束)
大人になってからの社会人の苦労、
恋人との未来を取るのか、少年時代の友達を取るのかという、
ベタなメインストーリーライン。
敵は、我慢を知らない親子。
このテンプレからは、
「大人になることは我慢すること、
楽しかった少年時代の思い出を捨てて、
(年齢に応じた)やらなきゃいけないことをすること」という、
一般的なメッセージが読み取れる。
「35にもなって」と、年齢が何回も挿入される。
大切なパーティーを抜け出して、
フラッシュゴードンのもとへ走る、
ボトムポイントにもそれが現れている。
80年代や90年代は輝いていたというノスタルジーがそれを加速する。
ここまで来て、僕は「大人版オバQ」という傑作を思い出していた。
大人の正ちゃんは完全にオバQを忘れた。
テッドはどう決着をつけるのだろうと。
僕はここまでベタなストーリーラインから、
「大人になることは、我慢することなんて詰まらないことじゃない。
○○なのさ」というタイプの結論が来ることを予想していた。
きっと予想もしなかった、素敵な結論をだ。
ここまでベタに来たからには、
ヒントは冒頭にある。
テッドがどうやって誕生したのか、にまつわる何かがあるだろうと。
そこまでは当たっていたが、
その出来が予想をはるかに下回った。
恋人が祈って蘇生するって。どないやねんこれ。
結局、ご都合主義だ。
結局、大人になるなんて我慢はやめて、
現状維持のためにビッグマザーが甘やかす話かい!
テーマとは、「結局、○○だ」の○○に入るもののことだ。
大人になることは、別れを経験することだ、とか、
大人になることは、痛みを覚えて優しくなることだ、とか、
このご都合主義以外ならなんでも良かったのに。
テッドは鉄塔の上で雷に打たれて死ぬべきだった。
雷友達に本当の雷を見せ、
避雷針があるから大丈夫だと教えて死ぬべきだった。
どんなに修復しても再び動くべきではなかった。
たとえばそのあと結婚して生まれた子供が、
友達がいなくて、押し入れの奥にしまったテッドを見つけて、
お腹を押したら「I love You」としゃべる所で終われば良かった。
(2にもつなげられるだろそれで)
少年には友達が必要だ。
そしてその友達との別れも必要なのだ。
そうやって男は生まれる。
優しくて人の気持ちが分かる、大人の男が。
(映画内ではただmanだったかな)
大人になった主人公は、
たとえば恋人の、
子供の頃大切にしていた人形についても、
聞くことが出来るはずだ。
たとえばバービーだとして、
動かなくなったテッドを彼女に会わせるストーリーラインだって、
思いつけたはずだ。
(彼女の実家に行くことがプロポーズの意味になる)
そうやって、大人になることは、○○である、
と表現することが出来るはずなのに。
これらの可能性を、
単なる復活コメディラスト(トラブルの毎日はつづく)
にしてしまったのが相当惜しい。
少し気になるのは、クライマックス以降が、
スタジオの権力で改訂されたのではないか、
という懸念だ。(脚本クレジットに三人の名が)
少年が大人になる話は、
女にも子供にも受けないからだ。
それよりも、毒舌セックスグマのキャラを、
女たちに受ける永遠に生きる存在にしたいスタジオの意向は、
わからんでもない。
キャラものは、ギャラを払わなくていいという、
自社の持ち物感覚になるからね。
と、いけちゃんとぼくで辛酸を嘗めた僕が言ってみる。
まあ、そこは余談。
ラストで、映画は決まる。
結局、○○だ、
が映画だ。
あなたの物語は、結局なんだったんだ?
それが深く心に刻まれる、名作たりえてるかい?
ドラマ風魔は、結局、人の心に暖かい風を吹かせた。
映画いけちゃんは、結局、少年は大人になった。
それが物語だ。
テッドは、結局、なんでもなかった。
駄作入り確定。惜しい作品として今後思い出されるだろう。
2015年07月20日
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