2015年07月22日

「ドラマとは葛藤である」は誤訳だ2:デッドロック

ナンバリングは3とか4とかかも。

「ドラマとは葛藤である」は、誤訳だ。
「ドラマとはconfictである」を誤訳している。
コンフリクトとは他者とのぶつかり合いやバトルを示し、
心のなかであれこれ悩むことを意味しない。

そうでなくとも、
「葛藤」は、デッドロックを意味する。



葛藤とは、AかBかで心のなかで悩むことだ。
心のなかはカメラに撮れないという理由で、
葛藤は良くないと説いてきたが、
もっと酷いことが起こることに気づいた。

時間停止である。

AとBの間で葛藤するということは、
悩んでいる間は、「決定が下せない」ということだ。
つまり、主人公が葛藤すると、
話の進行が止まるのだ。

これが葛藤の最大の罪だ。


映画的物語とは、動くことである。
行動したり決定を下したりして、
次々に事態が急変していくことを言う。
葛藤は、この流れをせきとめてしまうのである。

主人公が葛藤すると、話が止まる。
他のキャラが動かさざるを得なくなる。
そうするとどうなるか。
「主人公ずっと休み」になってしまうのだ。

主人公一人だけ悩むだけでなにもせず、
他のキャラが動いてお膳立てを整えてくれる、
「落下する夕方」テンプレ
(このブログで批判する、最も下手くそなシナリオのパターン。詳しくは検索)
は、こうして出来上がってしまう。

主人公への感情移入も糞もない。
主人公の行動や決断にこそ、動きがあり、
そこに感情移入するのが映画というメディアである。

不動金縛りの主人公には、感情移入も糞もない。


デッドロックの例で思い出すのが、
聖闘士星矢での、「千日戦争(ワンサウザンドウォー)」だ。
ゴールドセイント同士が戦えば決着がつかず、
千日向かい合ったままになるという。

葛藤とは、一人千日戦争だ。
勝手に一人不動金縛りにでもかかってろ。
他のやつを主人公にしたほうが、
血沸き肉踊るダイナミックな物語になるだろう。

聖闘士星矢内で千日戦争になったのは、
アイオリアとシャカだっけ。
この二人をほっといて、話は進んだような記憶がある。

つまり、葛藤状態に落ち込んだやつは、
動き続ける物語から見れば、
時間停止=死んだも同然なのである。


葛藤に、なんの価値も意味もない。
なくていい。
ないほうがいい。

主人公が「AかBかで迷った」ら、
「ええい、Aだ!」と即決断するほうが、
面白い話になるだろう。
(大抵間違ってて、Bを次に選んで展開する)

何故なら、感情移入とは、決断や行動の瞬間に起こるからだ。



葛藤はデッドロックだ。
葛藤など物語の死である。
うんこガッチャマンの大鷲のケンと同程度のうんこである。



さて、てんぐ探偵48話妖怪「天狗」では、
珍しいデッドロックの脱出法を描いている。
シンイチと僧正が双方不動金縛りで動けなくなったあと、
物語を動かしたのは、「もう一人のシンイチ」だ。

葛藤でよくあるのは、天使と悪魔が囁いて、
俺はどっちを選ぶべきだー!とデッドロックになるが、
そこへ別の原理の三つ目の存在(しかも本人)が出てくる、
という新しい解決法だ。

デッドロックは話が止まる。
止まった話は止まったままで、
別のキャラに話の主導権がうつってしまう。
posted by おおおかとしひこ at 02:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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