僕がジャンプ黄金期に多大なる影響を受けているせいか、
主人公を考えるとき、ついつい少年漫画的主人公像を想像してしまう。
熱血で、正義感が強く、
誰にたいしても明るくて、
能力的には最初は劣っているが、
可能性を秘めていて成長力は抜群で、最強になるキャラ。
格ゲーで言えばバランスキャラみたいなことか。
そういういわゆる主人公キャラは、捨てよう。
少年漫画的テンプレ以外にも、
主人公キャラはいる。
地味で何の取り柄もなくて、
妄想だけはする傷つきやすい内面の中高生。
(大抵異世界ファンタジーなどの主人公になる)
何故か最強の能力があり、
女にもモテモテのスーパーマン。
(007が典型。80年代のアクションヒーローは、
大抵こうだった。トップガンやら、シュワちゃんやら)
これらを三大テンプレ主人公と呼ぶことにしよう。
これらを主人公にしてはいけない。
理由は簡単で、
「それは他にいる」からである。
それらの主人公キャラを踏まえた上で何か新しいことをするのなら意味があるが、
これらのテンプレを使うことは、
何の意味もない。
新しくないからだ。
物語をつくるということは、
新しい主人公を発明することに他ならない。
0から作るのは難しいし、
他からパクったりアレンジしても二番煎じだから、
唯一無二の実在の人をモデルにするのが、
実はもっともよくあるやり方だ。
友達とか親親戚兄弟や、周りの知り合いの人とか、
あなたの周りでなんだか面白い人がいるだろう。
その人の成分を主人公にまぶすと、
急にオリジナリティー溢れる主人公になったりする。
こんな面白い人があんな苦境に陥ったらどうするだろう、
と新たにいろんなことを考えたくなるだろう。
しかし、主人公のキャラが物凄く魅力的である必要は、
必ずしもない。
実は多くの映画では、特殊で濃い主人公はあまりいない。
どちらかというと、「ごく普通の人」が多い。
スペシャリティが物凄くあるわけでもなく、
物凄く欠点だらけでもない。
その代わり、人よりちょっと得意なことがあったり、
人より苦手なことがあったりと、凸凹していて、
しかし、
普通の判断力を持ち、
普通の常識を持っていて、
普通にズルいところもあり、
普通にちょっと優しいところもある。
第一のパターンのように、
少年のあるべき姿の正しいキャラである必要はなく、
第二のパターンのように、
特別卑屈になる必要はなく、
第三のパターンのように、
特別スペシャルになる必要もない。
普通にありそうであればそれでいい。
それがなかなか難しいんだけど。
(普通こう思うよね、となかなか客観的になれないから)
むしろ重要なのは、陥った事件やシチュエーションだ。
それが面白いことが、
主人公そのものが面白いことよりも、
優先順位が遥かに上である。
(ガンダムの例をもう一度出すなら、
ゼータガンダムの主人公は、キャラの魅力はそこそこあるのに、
陥った事件が面白くない)
面白い事件に対して、
普通程度の人間が、普通の知恵で、
ちょっと欠点もあればちょっと得意もある程度で、
挑むから面白いのではないかなあ。
主人公の魅力は、
その性格や過去設定や能力よりも、
あるときに何を言い、どう行動したかで決まると思う。
スペックより、ストーリーだと思う。
だから、主人公キャラを一端捨てて、
普通の人を主人公にすることを考えたほうがいいのではないか。
「いけちゃんとぼく」では、主人公ヨシオを、
普通じゃないキャラにし過ぎて反省した。
小次郎があまりに面白かったので、対抗しようとし過ぎた。
我らがてんぐ探偵、高畑シンイチはどうかなあ。
ヨシオ同様、ちょっと頭が良すぎることもあるけれど、
ヨシオより普通かなあ。
今新作をちょっと考えていて(てんぐ完結のプレッシャーからの逃避行動)、
その主人公がちょっとテンプレに入りそうだったので、
いかんいかんと思い直してこの記事を書いている。
映画は毎回少年漫画ではない。
映画は毎回ラノベでもない。
映画は毎回スーパーヒーローでもない。
映画は、普通程度の人の物語であるべきだ。
普通程度の人間が、物凄く魅力的に見える瞬間を、
文脈でつくるべきだと思う。
(ここでまた映画とは美男美女のものである、
という某プロデューサーの迷言を思い出す。
僕はずっと違うと思っている)
主人公テンプレは捨てよ。
人間を描くのに、そのテンプレは使えない。
2015年07月24日
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