「ペプシ桃太郎の映画化には何が必要か」
の記事に寄せられた烏さんのコメントに答える形で。
以下烏さんのコメント。
単純にバガボンドの宮本武蔵のように剣の道に進み、
ただ純粋に極めようとする武人という設定では?
そうすれば、鬼退治の後に、次の強者を求める為に旅に出るという、
パート2的な余韻も残せるし「シェーン」のように
旅立つ桃太郎の後姿を見守る目的を果たしたお供たち
(犬、雉、猿)のシーンで終わるって感じで良いかなぁと思いますが
Posted by 烏 at 2015年07月25日 20:36
ここまで(改行はこちらでやらせてもらいました)
烏さんコメントありがとうございます。
それで面白くなるか?と僕は疑問です。
まず武人ということについて、
漫画やゲームでよくある武人キャラということで良いですね?
武士ならばご恩と奉公の関係があるから、
ご恩(土地、奴隷)の為に技を磨くことはあっても、
強いやつはどこだあーとより強いやつを求めて暴れまわることはないから。
「強くなりたい」という願望は全ての男子にあると思いますが、
「自分より強いやつと命を懸けて闘いたい」はないと思います。
まあ死なんだろ、というバカは闘うかもですが、
死ぬ可能性が五分五分なら、
人はよほどの理由がない限り、
闘いを避けると思います。
漫画やゲームでよくある武人キャラは、
このリアリティーを無視したキャラクターです。
元祖はドラゴンボールの孫悟空かなあ。
「もっと強いやつと闘いてえ!」が口癖の。
例えばゲームで闘うとか、スポーツで闘うならば、
それはOKかも。死なないから。
しかし、殴られたり斬られたりすれば死ぬ、
という状況下で、
アドレナリンが出ることはあっても、
もっと!と思うのは、まともな神経ではないと思います。
何故なら、「負ければ死」の世界で生き残ってきた人は、
全員無敗だからです。
「もっと強いやつと闘いてえ!」は、
死ぬか生きるかギリギリをやることではなく、
勝ちが簡単すぎて退屈だから、もっと追い込まれたい、
ということに過ぎません。
自分より強いやつと闘うのは、
負けても死なないゲームなら楽しいですが、
負けたら死ぬリアルでは、
この先危険の道でしかなく、Uターンするべきです。
にも関わらず、もっと闘いたい、
というやつは、頭がおかしいのです。
バガボンドの宮本武蔵に、
僕は何ら感情移入出来ません。
「関ヶ原に間に合わなかった」というごく初期は感情移入出来たけど、
一乗寺の殺戮劇や、農業編には、
なんら感情移入出来ません。植田(だっけかな)は良かった。
多分、相手の死をちゃんと描いていないからだと思います。
バガボンドは描写としては傑作ですが、
中身はうんこです。
理由は、主人公である宮本武蔵に、感情移入出来ないからです。
若い頃、武者修行をしたいという願望は誰にでもあります。
自分の力を試したい、存分に発揮する機会が欲しい、
という若者はたくさんいます。
しかし、それが現実の壁にぶつかるのが人生です。
自分の力が足りない、自分は最強ではないと知ったとき、
ただただ最強スゲーを目指すのではなく、
自分は何を目指すべきか、
という自分なりの目標をつくる、それが人生。
映画という物語は、その目的を追う行動を描くものです。
さて、バガボンドの宮本武蔵はそうでしょうか。
道半ばなのでなんとも言えませんが、
何故彼は最強を目指すのでしょう?
彼の目的は何でしょう?
それが分からないので、さっぱり感情移入出来ません。
最後に何か分かるかもな、という淡い期待で小次郎仕官編をモーニングで読み続けていますが。
何故命を懸けて闘うの?
誰かを守るためとか、何かを果たすのなら分かる。
しかし、ただ闘いたいから闘う意味が分からない。
それを、バトルジャンキーという考え方だと呼びましょう。
例えばスポーツとしての格闘家とか、
レーサーとか、アルピニストなどがそうでしょうか。
それは、征服欲でしょう。
何かを制することが楽しいのでしょう。
気持ちは分かりますが、映画として感情移入出来るでしょうか。
死ぬかもしれないことに際して、
ワクワクしながら征服する人間は、
人間じゃなくて、獣に近いと思います。
映画は人間を描くものであり、獣を描くのはドキュメントです。
実話ならいざ知らず、フィクションで獣を描いて、
何が面白いのか分かりません。
バトルジャンキーを描いた、数々の漫画があります。
「刃牙」「修羅の門」あたりがフロントラインでしょうか。
「軍鶏」は詰まらない最終回でしたね。
修羅の門は先日終わりましたが、結論は出ずじまいです。
刃牙も烈さんが死ぬ時に、ようやく負け=死の世界に踏み込んだけど、
もし烈が次に闘うとしたら、きっと自分より弱いやつと闘うでしょうね。
これらは漫画としては面白いです。
しかし映画になるとは思えません。
何故なら、彼らは獣であり、人間ではないからです。
超人プロレスを描くのが映画ではありません。
人間の弱さや強さや、本質を描くのが映画です。
宮本武蔵が、陸奥九十九が、範馬刃牙が、
負ければ死ぬ、しかも自分より強いやつと闘うとき、
どうするのかを描ければ、映画になるかもです。
何故命を懸けて闘うの?
強いやつと闘いたいから、は、感情移入出来なさそう。
○○を守るため、とか、
これに勝てば人生を切り開けるから、
なら感情移入出来そうな気がします。
武人キャラは、そういう意味で、漫画やゲームのキャラで、
リアルにはいません。
仮に、バトルジャンキーがリアルにいたとしましょう。
どこかで警察の厄介になってはいるでしょう。
札付きのワルかも。
彼は強いやつを求めて、どこかへ行くでしょう。
それが彼の目的だからです。
自分より強いやつが一人もいなければ孤独。
どこかで自分より強いやつと闘い、死ねば終了。
そんな人生が、映画にする価値があるかなあ。
さて、「シェーン」が例に出たので。
シェーンは、この映画の中での主人公ではありません。
この映画の主人公は、助けられる側の未亡人です。
彼女が恋をし、諦める話なのです。
シェーンが悪者をやっつける話ではありません。
映画の主人公は、最も変化をするべきです。
シェーンは徹頭徹尾変化をしていません。
彼にとってのこの村での滞在は、
彼の人生の大きな目的(不明)にとって何の意味もなく、
ただの日銭稼ぎです。
ヒーローもの、股旅ものでは、これがよくあります。
次に立ち寄った村の人々が主人公なのです。
(大抵これだけだとヒーロー側に厚みがなくなるので、
仇を追っているとかの、個人的目的を作ることが多い)
シェーンには目的がありません。
目的を持って失敗して傷ついたり、困難に立ち向かう勇気を見せたりせず、
頼まれたので掃除をしただけです。多少ピンチはありますが。
未亡人には個人的目的(悪党を倒すこと)があります。
彼女の目的がセンタークエスチョンであり、
それが解決すれば映画はおしまいです。
さて。
桃太郎がバトルジャンキー、武人キャラだとしましょう。
何故彼は村にいたのか?
最強を求めて諸国漫遊しないのは何故か?
何故仕官の声がかからないのか?
ある程度強いなら、倒して名を上げようという奴は何故来ないのか?
このへんの基本設定が上手く(面白そうに)作れる気がしません。
そして、何故命を懸けて、五分五分以下の闘いをしに行くのか、
全く感情移入出来そうにないです。
一宿一飯の恩義とか、人としての道が理由なら分かりますが。
結論を言います。
ペプシ桃太郎は、つまり、漫画やゲームレベルのリアリティーなのです。
実写映画レベルのリアリティーではないのです。
桃太郎は、吉備津彦の温羅退治譚という実話が、
説話化したものです。(異説あり)
お伽噺のリアリティーではなく、
漫画ゲームレベルでもなく、
実話レベルのリアリティーなら、
面白い話になったかも知れません。
(その場合、原住民対渡来異民族の話になり、
在日とかの民族差別に繋がる話になりますが)
バトルジャンキーは、漫画ゲームのリアリティーレベル。
実写のリアリティーレベルではありません。
武人の話は、面白くなる予感がしません。
武士だとして、主君の命により旅立つ?
それもあんまり面白くなさそう。
村の人々が困ってるから正義のため?
それもあんまり面白くなさそう。
僕の書いたプロットがベストだとは思っていません。
もし烏さんが武人で良さそうと思うなら、
そのプロットを書いてみて下さい。
議論が進むかも知れません。
2015年07月25日
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ただアクションがカッコイイだけじゃあ東映マンガ祭りか
単純なキャラ映画になってしまいますね・・・
劇団新感線の阿修羅城の瞳のプロットの焼き直しみたいなものですが
鬼を世の中が不安定になると現れる存在として
それを撃つ存在として昔から裏の組織があった。
で、桃太郎を病葉出雲の立ち位置で
以前はその組織の一員だったが、作戦中に自分の心の闇を見て 組織を離れて放浪生活
そして、長い安定の時代で組織が弱体化 再び現れた鬼に対峙するも壊滅、その生き残りとして猿が 桃太郎に助けを求め、再び自分の闇と対峙する為に鬼退治に赴く。
戦う理由として
猿は、典型的な正義感(正義の為ならと暴走する)
犬は、村の仇討ち
雉は、鬼に落ちた兄を助ける、止める為
で、桃太郎は猿の中に若い頃の人々の為に鬼を討っていた自分を見る
また、正義の為の犠牲を良しと暴走する猿に自分の闇を再び見る・・・
その時 桃太郎の決断は…
でも、そうすると、「自分より強いヤツを倒せ」のコピーが合いませんよね
阿修羅城は舞台を見たいのですが、予備知識として映画版見たらあまりの糞で挫折した記憶が。
さて、闇に堕ちると鬼になる、というのはビジュアル的にも面白そうでいいアイデアかと思います。
問題は、烏さんがおっしゃる通り、
「自分より強いやつを倒せ」の意味が通じなくなる所ですね。
「心の弱さを克服せよ」という話にはなりそうですけど。
鬼はファンタジー的な存在だから、
飯食ったりしないのか?人間を食うのか?
増えすぎたらどうなるの?天敵はいるの?(雨に弱かったりして?)
何故ずっと増え続けないのか?
その辺が上手く設定されれば魅力的な敵になるかも。
で、結局心の弱さって具体的になに?
「逃げちゃダメだ」?それじゃ14歳レベルのテーマか。
結構このへんを詰めとかないと、物語として軸足がなさそうですね。
「強くなるために悪魔に魂を売ること」?
何故悪魔に魂を売ってはいけないのか?
そこが上手く描ければ、正義とは何故価値があるのかを描けるかも。
「自分より強いやつを倒せ」。
このテーマに落とすことは、非常に難しいパズルです。
それを深く考えずに、
まさにそれこそ「思いつき」でやってるのが腹立つのです。
烏さんのプロットは、別テーマとして面白そうなので、
ビジュアル変えて詰めれば、一本書けると思いますよ。
プロットだけだとありがちなので、
キャラクターとか鬼化などに独自の魅力的なビジュアルやアイデアがあると、もうオリジナルになりそうです。
お供のバックストーリーを途中で回想にして尺を埋めるのはナシで、
中盤第二幕の冒険をつくれれば、いけます。
ありそうなのは、鬼のキャラが一人出てきて絡むことかなあ。
またも他人のプロットに乗っかる形ですが、
漫画で、たがみよしひさ先生の「滅日」というのがあるのですが。
世の中の不安や恐怖が膨れ上がった時に、2人の人間が選ばれ神と魔になり 魔が人々の恐怖や不安、悪意を吸収し力を増していき、最後は神によって討たれて、世の中が浄化されるという流れなのですが、その魔が神に敗れてしまう事すらも運命として決められた事であり、その流れは連綿と繰り返されてきたものである。という話があるんです。
それを元にして、新しい正義も時代が立てば腐敗していくというのを加えて、魔を討った神が、次の魔になる運命を背負うといった事にする。
で、鬼(魔)は人が変化した者という設定で、
悪意などの瘴気が溜まってしまうと鬼になる。で、その瘴気が溜まる心の部分は、筒のような物で、普通の人は瘴気が流れる一時だけそれに支配されるが、すぐに通り過ぎてしまい、それは怒り等といった感情に変換されて終わってしまう。
だが、まれにその筒が詰まったり、器の様になっている人間は、瘴気が溜まっていき、溢れて鬼になる。
そして、そういった鬼を小鬼として、小鬼はいつの時代でも常にどこかに存在する。
そして、世の中の不安や恐怖が溢れた時に、大鬼が現れ、その大鬼が現れる事で人々の心の筒が細くなったり、詰まりやすくなる事で、鬼化する人が増えて普通より多くの小鬼が増えて 世の中が益々 荒れていく。
で、大鬼を討った者は、次の大鬼になるべく心の中に大きな器を受け取り次の大鬼の資格と次の大鬼になるまでの永遠に近い命を授かる。
といった基本設定で
桃太郎は、前の大鬼を討った者で本来であれば次の大鬼になるはずだったが、自分が大鬼になる事を防ぐことで次の神と魔の戦いを防ごうと隠遁していた。
しかし、隠遁から何十年かたった時に、大鬼が現れて世の中は荒廃する
実は、大鬼の出現は世の中の恐怖や悪意の瘴気が溢れて一定の量が超えれば必然として起こる。そして、その時に一番、多くの瘴気を溜めていた者が大鬼となる事になっていた。 だから、大鬼を倒して受け取った心の器とは、普通より大きいというだけで、瘴気が溜まっていなければ鬼にはならないのだった。
だから、桃太郎が大鬼にならなくても、繰り返される歴史として常に世の中の瘴気が溢れれば、それを倒し浄化する神が現れるというのは変えられない事を桃太郎は知る事になる。
そして、今まで自分が運命から逃れようとしていたと気づき、大鬼を倒し今度こそ次の大鬼として生きる覚悟とともに鬼が島に向かう・・・
で、何十年かの隠遁生活の間に瘴気を払う剣でも手に入れていて、大鬼を倒して次の大鬼が現れるその時まで、瘴気を払い 世の中の瘴気が溢れるのを防ぎながら、いざ、大鬼が現れるその時には 自分こそが一番多くの瘴気を心の器に溜めた者となるために、自分より強い(多くの瘴気を溜めている)奴を倒しにいく
世の為に悪になる事を選ぶ・・・
なんてのはどうでしょう? 強い奴はかなりこじつけですが
なかなか凝った設定で、ラストも落ちそうかな。
しかし、これはあくまでバックストーリーです。
現在の桃太郎の苦悩とか感情移入は?
「前回の勇者+次の鬼候補」は、
冒頭で説明するのか途中でばらすのか?
ばらすとしたら本人か他人によるのか?
ばらすとしたら、ばらす前の桃太郎への感情移入は?
僕がこの設定をもらったら、
桃太郎を主人公にしないと思います。
村の誰か感情移入しやすい人を主人公にして、
前回の英雄桃太郎を探しにいく話にしたほうが、
感情移入や背景説明が楽になりそうです。
北斗の拳におけるバットの立ち位置。
(現状だと猿がその位置で使えそう?)
そうすると、エピソード0と齟齬が生まれてしまう…
この設定で、
桃太郎が村(または住んでいる洞窟とか)を旅立ち、
仲間または家来を増やし、鬼を倒す、
かつテーマに落ちている、
面白い話になるかなあ?
形は作れるかも知れないけど、
設定の解説が長そう。つまり、設定倒れの危険があります。
僕が心配なのは桃太郎への感情移入です。
元のCMでも、お伽噺でも、感情移入が出来ないし。
今桃太郎がどこに住んでてて、誰と関わりを持ってて、
観客はどこで桃太郎に感情移入するのか。
前回の英雄設定で感情移入するのか?
旅立つ理由を説明してるだけで上の文字数は必要になるから、
どこを謎にしておくか。
みんなが桃太郎の正体を知っているのか知らないのか。
その辺を決めないと、第一幕は書けなさそう。
それからの二幕は、設定より面白くなるかなあ。
そこをひっくり返す面白さが二幕だし。
僕は、この設定状態がマックス面白いんじゃないか、
という予断で突っ込みを入れています。
これでプロットを作るとすると、どうなるでしょうか?
(作劇というのは、自分の首をしめつづけていくことですねえ)
桃太郎は、最初の設定の鬼退治組織の一員として活動していた中で、何も知らない状態で一兵卒として大鬼を倒してしまう。
そして、その後に組織の長老に、倒した者が次の大鬼となり瘴気が溜まればその時に また大乱が起こると知らされる。
で、自分が異形の者へと変わる事や、そうなれば自分の友や組織に殺される恐怖から 組織から逃げ出す
そして、自分が大鬼にならなければ・・・と、隠遁&組織から逃げる日々
しかし、大鬼が現れたと噂を聞く、そんなはずは・・・と思いながらも確かめる、または倒す為に旅に出る
そして、鬼を探す途中に 過去の組織の長老に出会う
その長老も実は過去に大鬼を倒し、器を受け継いだ者だった、そして繰り返される大鬼の出現の歴史が語られる、長老は、大鬼が現れた時にその時代の人間に大鬼討伐の効果的な方法を伝える事が自分の使命だと思い生き続ける道を選択していた。
そして、桃太郎は、鬼になる運命を受け入れながらも、できうる限りの抵抗として大鬼出現の時期を遅らせ、もし生まれるなら自分が…という生き方を選ぶ
かなり、中国映画っぽい雰囲気になりますが
人はいずれ死ぬ運命それに抗うより、その人生をいかに生きるか。って感じでの感情移入はどうでしょう?
難しいですね
でも、これでもプロットではありません。
プロットは、必ず最後まで書いてください。
出来れば、文字数のペースが、実際の映画の尺になるのが理想です。(設定を語る分序盤が文字数取りそうですが)
ここまでで30分から40分といったところかな。
(別の序盤からはじめてこれを中盤前半または後半に持ってくる手もある)
中盤どんな冒険が待つのか?
終盤のバトルと結末は?
その結果、自分より強いやつを倒せ、
ということが素晴らしいことであるように示さないと。
是非最後まで書くことをおすすめします。
第一幕 桃太郎の組織の一員時代
ただただ、正義の為と戦う鬼を倒せば幸せになると信じていた時代(勉強してれば良い人生を送れると思っていた頃)それして、逃亡(初めて社会に出てのギャップに挫折)
第二幕 逃亡から大鬼の再来
逃亡中=自分は大鬼には成りたくない、ならければ世界は平和だ(自分は悪くない、社会が間違ってるんだ。認められなくても私は正しい事をしているんだと思う時期)
大鬼の噂=そんな、自分は間違ってないはずだ、そうだ確かめるんだ、自分が正しいんだから(世界はそれでも回っている事を知る時期)
第三幕=長老との再会、大鬼退治そして
長老から過去からの歴史を聞く(大人も皆、同じような葛藤を経験して今にいる事を知る)
大鬼退治(社会を知るそれでも、やはり自分には譲れないものがある、ならそれを守る為に自分のできる事をするべきではないのかと思う)
人として生きる事を捨て、鬼になるかもしれない運命を選ぶ(自分のしたい事よりそして自分だからこそできる事に生きる道を・・・)
長老と桃太郎の生き方、どちらも正しい・・・人生の正解は一つじゃない
って感じではどうでしょうか?
犬。猿。雉のエピソードは一過性の解決法としてのそれぞれの選択みたいな感じで流し気味で
やっぱり、設定に必死にこじつけようとしてるみたいですね。難しい・・・
これで二時間は持たないと思う。
先にも書きましたが、30ないし40分の分量かな。
(ちょっとこぼれて他で捕捉かと)
烏さんは、三幕構成に明るくないのでしょう。
一幕の最後に第一ターニングポイント、
二幕の最後に第二ターニングポイントを置くとよいです。
「桃太郎が旅立つ」が第一ターニングポイントになるのが、
普通のパターンかなと。
1幕では、ほぼ最初の状態で、後半で倒した鬼が人間の姿に戻り、改めて人を殺している事に悩みながら 鬼に敗北・・・
2幕前半で、宮本武蔵が鬼を倒して人に戻す場面に遭遇。
鬼は人に瘴気が溜まった存在だから、その瘴気を払う技を知れば 鬼を人に戻せると知り、修行。
後半、で猿(組織の人間)犬(敵討ち)雉(兄カラスと戦う)と合流(兄を元に戻せるのなら。。。と、雉がお供になる理由にもなるかな?と)
そして、鬼となった兄と対峙、兄を元に戻すことに成功。
第三幕、そこに襲い掛かる敵、雉をかばい死ぬ兄。
その敵は宮本武蔵だった・・・
桃太郎同様 瘴気を払っていた宮本武蔵。それが何故?
で、語られる瘴気の発生理由
光があれば影が生まれるように、人が希望や光を求めればそれに呼応して瘴気も生まれる。ならば、光がなければよい、それを生み出す人がいなければよい、闇に包まれてしまえば、これ以上苦しまない。と、全ての人が鬼になる事を望む。そして、大鬼を倒して受け継がれるものは器と供に闇を生む宝玉(英雄という希望)であることを告げる。
桃太郎は、まどろむ灰色の世界で生き続けることに何の意味がある
と、宮本武蔵を倒し 大鬼の元へ
そして大鬼を倒し宝玉を猿に渡し、お前は輝け、俺は闇になると、瘴気を溜めながら、瘴気を払い次の大乱を待つ…
って考えてると「バットマン ダークナイト」だなぁとなってしまいました。
一応矛盾のない一本の話として成立していそうですが、
話が抽象的すぎる気がします。
絵や芝居で示す具体的なエピソードになっていないのが心配。
烏さんのキャリアは浅そうなので、
多分書き始めたら途中で挫折しそうな気がします。
悪とか正義とかが、具体的な絵を伴ってない。
たとえば悪とは理由なく人を殺すこととして、
正義とはその悪を殺すこと?
理由のある殺人かどうかはどうやって示すのか?
裁判するわけでもないだろうし。
鬼のビジュアルで即悪と判断するのは、単なる民族差別。
(歴史において、異民族は全て鬼として排除してきた日本を踏まえるなら余計に)
武蔵が鬼成分を分離できるファンタジーなら、
なぜそれを桃太郎にほどこさないのか?
そもそもその成分はどこへいくのか?
桃太郎大鬼化から鬼成分を分離しないのは何故?
嘘をついたがゆえの嘘が増えそうです。
あとこの設定だと、桃太郎自殺エンドが正解のような気がします。それがおもろいのか?
三幕構成については、あのWikiはダメです。知らないほうがましレベル。
参考図書か、このブログで学んでください。
また、ダークナイトエンドならば、
「自分より強い奴を倒せ」ではなく、
「俺が大魔王を引き受けるから、誰か倒しにこい」になるでしょうね。
(そのメッセージが若き桃太郎にループして渡される?)
これは深みにはまって取り返しがつかなくなるので、
三幕構成あたりに戻ったほうがいいですよ。
二幕は、日常と違う危険な旅、
一幕は日常から旅に出るまで、
と考えるのが楽です。
従って世捨て人桃太郎が鬼の再来を聞いて、
再び旅に出るまでを一幕、
その旅の途中で家来を増やし、
三幕で鬼ヶ島決戦にいどむ、
という大筋の中で、
過去話や武蔵を配置したほうがやりやすいと思います。
それで桃太郎に感情移入出来るかなあ。
現状だと桃太郎に感情移入するのは、どラストのみなんですよ。
どこらへんで感情移入するのかも、考えてください。
開始15分以内が必要です。
save the cat 読んでみます。
ログラインとして、
鬼となった師を倒す為、地獄へ向かった桃太郎
その旅の果てに彼らは浄土で仏と対峙した
自分より強い奴を、剣術の自分の師として 師を超えるのが弟子ってのは、原始的なテーマだと思うのですが。
(超えた後に、桃太郎が挑戦者であり続けるのか、また、桃太郎が次の挑戦者を迎える立場に変わっていくのか)
このフレーズ自体が、コカコーラが王者で、それに対するペプシが挑戦者という構図だから成り立つもので、じゃあペプシがコーラに勝ったらどうするの?って話になるんですよね・・・
ちょっと気になったのは、
「桃太郎の映画を見たい」という欲望が、
あのビジュアルを活かす話が見たいのか、
桃太郎を現代映画に出来ないか(アメコミのようにちゃんと元の話を活かしたアレンジ)、
どっちかを自覚した方がいいかもですね。
前者なら、あのビジュアルでドラクエ実写版でもいいと思うんですよ。
つまり、ビジュアルは話と関係ない、
ということを分離できたほうがいいです。
話とビジュアルは独立していて、
そのマリアージュを考えることが本当の創作です。
「桃太郎にあのビジュアル」を尊重するとして、
以下の話を続けます。
(大元の議論で示しましたが、そのビジュアルすら、
パクり満載のイミテイティブなんだけだどね)
言葉が抽象的なのが気になりました。
「地獄」「浄土」は、
仏教でのそれなのか、
比喩としてのそれなのか、
それとも烏さんのファンタジー的なオリジナルなのか、
よく分かりません。
本当に仏に会うのは、例えば風魔の小次郎の聖剣戦争のように巨大な仏に会うのもあるし、
「ベン・ハー」みたいに光がさすのを神に会ったと解釈するのもあるし。
誰が読んでも分かるように書くべきです。
ということは、本質を飾らず書かなくちゃならんのです。
そこがログラインの怖いところで、面白い所です。
さて、
ざっくり言うと「父越え」の変形で、
お話としてはポピュラーな原始的なものです。
しかし、ここでも「倒す」という言い回しが気になりました。
殺すのか、圧倒するのかが曖昧。
後者なら父子ものでしょうが、
殺さないとダークソウル的なものは退治できなさそうだし。
また、「何故」桃太郎は、師を越えたいのか。
殺すためか。ただ越えたいのか。
越えることは絵で言うとどういうことか。立ち会って「まいった」と言わせること?
この辺に、「我々が」感情移入出来るように作らないとだめです。
簡単なのは「恋人を殺したから、復讐したい」かな。
「師匠の悪を正したい」なら、
悪の具合とか、具体がないと感情移入出来ない。
(例えば釣り銭を誤魔化す、人を理由なく殺す、政治に関わり仕組みを変えて永久に自分が儲かるようにする、
など、悪には色々あります)
また、大鬼が師匠だと分かるタイミングをいつにするかは決めないとですね。
序盤か終盤か。
大鬼を倒したいと言う猿犬キジに桃太郎はどういう思いをするかは、
正体を知ってるか知ってないかで大きく変わります。
Save the catはとてもいい本ですが、
コメディに特化した内容なのを注意しないと、
彼のペースに巻き込まれますよ。
この話はシリアスだろうからその温度差を気をつけながら読んでください。
どちらかといえば、あのCMが映画になれば という所から発想なので、創作としてはまちがってるのかもしれません。(その為に 自分より強い。。。のフレーズをどうしようとか、そうゆう点を重視てしまっているのですが。)
桃太郎伝説自体は、その時代の朝廷の正当性を強調する寓話の一つだと思うところもあるのであまり、桃太郎自体がとは考えてないかもしれません。
自分としては、厨二と思われるかもしれませんが、ダークヒーローの方が好きなのです。(ハカイダーとか)
で、別に私自身が宗教的に何かに傾倒してるわけではないのですが、この場合の地獄と浄土とは、仏教を土台としています。
鬼は悪といわれているが、日本では鬼瓦とか家を守るものとして神のように扱われている点を考えて
鬼の居る場所は地獄で、そこを仕切っているのは閻魔
その閻魔は菩薩の化身であると仏教では考えらているという考えがあるので(鬼等の考えは中村光行さんの説を参考にしています。中村さんに言わせれば、鬼は地獄で働くブルーワーカーで憎めない存在で、いつも仏教を正しいや、それこそ桃太郎を勇者とするために利用される側だそうです)
そして、菩薩に使役され使えているなら鬼は悪では無くキリスト教の天使の様な存在なのではないか、
なら、なぜ鬼が世の中に現れるのか、地獄の存在意味は?と考え
地獄は 極端に言えばゴミ処理場の様なもので、現世の悪意や業などを処理して浄化するする施設、鬼は現世のゴミを集める為に現れる存在と 勝手に考えていって
一般に鬼を倒すのは正義だが、実は・・・みたいな話を展開できればと思ったんです。
そして、鬼にも3本指の生粋の地獄で生まれた鬼と、5本指の人が悪行により鬼と化したものがいるとの話で鬼にも区別がという点を第一か第二幕の途中あたりでターニングポイントにと思ったりしてたんです。
しかし、このCMを土台じゃないほうが良いのでしょうか
ストーリーの創作の世界へようこそ。
でね、こういうときは全体を俯瞰して考えるんです。
この話は何を主張しているのか?ってね。
そうするとダークナイトと同じく、
「たとえ悪と人には言われたとしても、
人知れず真実の正義を貫く」
というバッドヒーローものになるんですよ。
バッドの世界の序列競争になる話なんですよこれは。
あと、「誰が」悪だと言うのか、というのがあります。
世界の中のモブが言うのは、説得力が薄いですよね。
ということでハービーデントのような、
正義の役が必要になってきます。
じゃあダークナイトと殆ど同じ話やん。
で、この話は、
そのテーマにではなく、
「自分より強い奴を倒せ」に落とさないといけないんです。
本文中にもある通り、これは物語のテーマの形としては扱いにくい、下手な形のものです。
もっと扱いやすい形に変形しないと上手くストーリーをつくれないんです。
「テーマとは何か」という深い深い話でこのブログでは書いています。
また、烏さんの土台は、あくまでビジュアルなんですよ。
桃太郎のお話を土台にしなければ、桃太郎の映画化にはなりません。
烏さんのやっていることは、
漫画や小説原作の映画が、何故原作とかけ離れたものになってしまうか、という典型例を、
体験できたことになります。
こうやって大元から明後日の方向へそれてゆくのです。
何故か?
物語の技量が不足しているからです。
あくまでこのトピックは、
「桃太郎のお話」を、「あのビジュアルを生かして」、
かつ「自分より強い奴を倒せ」を主張する話をつくること、
が至上命題です。
既に烏さんは、ここから、
ダークナイト的なテーマを足すことで大元からそれるどころか、ダークナイトテーマがメインになっています。
ストーリーを書くことは、オリジナルではない場合、
あなたが書きたい話を書くことではありません。
元のものが持っている潜在的な要素やテーマ性や構造の奥底まで潜り、
映画的物語として完結させることを意味します。
ね?脚本家がどれほどの実力が必要か、
少しは実感できたのではないでしょうか。
烏さんの話は、和ダークナイトとしては面白いかも知れません。
しかし桃太郎の映画化ではありません。
俗なことを言えば「全く別物」「看板が同じで中身が違う」になっています。
よく言われるのは「監督の妄想を勝手に入れんじゃねえよ」ですね。
自分の例ですが、
漫画風魔の小次郎を、どうドラマ風魔の小次郎にしたか、
詳しい解説を風魔カテゴリの一番下に置いてあります。ファンの間で有名?な「監督メモ」です。
マイナーですけど、僕はいまだにこのドラマは傑作であり、
漫画のドラマ化の教科書に乗るレベルだと思っています。
宜しければ参考にどうぞ。
烏さんは、映画や漫画や小説が多分お好きなのでしょう。
たがみやすひさを出してくるあたり、中々の教養があると思います。
バッドヒーローで僕が一番好きなのは「デビルマン(原作版のみ)」です。
未読ならオススメですよ。
ダークナイトはこれに匹敵しないので、僕は点数辛めなんです。
当初は、桃太郎が源頼経かも、という話で進めたら平家→頼朝と戦っていき、最後のシーンで仮想歴史のチンギスカン説で、日本から次は中国の大地にと思ったのですが、頼経がただ強い敵を求めて戦ったわけじゃないので却下。
おとぎ話の桃太郎自体も、桃から生まれた「神の落とし子」や、桃を食べた爺さん婆さんが元気になって作った「普通の子」、桃は女神で爺さんと女神との「神と人のハーフ」、
挙句は子供がほしい婆さんが桃=若い娘を連れてきて爺さんと作らせた「代理母の子」
そのうえ鬼退治も、普通の正義感の強い子が志願、怠け者のニートが爺婆に尻を叩かれて、荒くれ者が一旗揚げる為、力自慢が村人や殿さまに頼まれて、鬼にさらわれた姫を助けるため、単に嫁さがしの旅に出て、全く違うのでは、荒くれ者過ぎて爺婆に鬼が島に送られて そこで鬼に説教されて改心するなんてのまで・・・
一応、結末としては鬼を退治や改心、仲良くなって 宝や嫁連れて村に帰ってきて 平和になって終わる話にはなっていますが。(中には帰る途中で死んでしまう桃太郎もいますけど)
で、完全にペプシ桃太郎を主ではなく、監督のおっしゃるように、主人公たりえない、薄っぺらい者として、本当にいたとしたら迷惑な人間だろうと、バカにするぐらいのキャラにしてしまって
コメディになってしまうのですが、何かの力で色々な桃太郎(ニート、荒くれ者、殿様の命で仕事として等)が集まって鬼退治にいかなくてはいけなくなって、最初の頃は先陣を切って戦いに行くペプシは頼りになる感じですが、話が進む内に、他の桃太郎たちは自分たちの鬼退治の意味や価値とかをそれぞれ立場で理解していく
そして、退治した後、それぞれ何かしらの達成感と平和なった世に満足しながら元の世界に戻っていく。
で、その後ろでペプシが一人次だ次だと言っている。
普通の人なら自分の周りの人の為や何かしらの目的の為に困難に立ち向かい、それが終われば、幸せな家庭にもどっていくのに、一人、冒険だぁチャレンジだぁと周り見えてないの?
という感じの話は・・・だめですよね
下調べをちゃんとすることは大事です。
先人の考えたことの上に乗っけるか、
別の道を行くかを決めることは、
自分がどんな文脈のなかにいるかを知ることです。
ところで、烏さんはコメディに詳しくなさそうな感じがしました。
これでは桃太郎は狂言回しにしかならず、
主人公を別に立てないと詰まらないと思います。
コメディだろうがシリアスだろうが、
映画の構造は同じです。
主人公に目的があること。
最初は押しつけられたものだとしても、
そのうち自発的なものになること。
その瞬間がドラマです。
コメディならば、そこで爆笑をとらないと。
(シリアスならばぐっと来るとか感動とかの感情)
そこが全く見えないので、
今のところ大筋すらない状態かなあ。
コメディはシリアスよりシビアですよ。
今のところ、それの何がおもろいんや、という状態。
さて、沢山の迷路があります。
これ以上バリエーションを増やしてもいいし、
どれかひとつにじっくり取り組むのもよいでしょう。
結局ストーリーを作る理由はたったひとつです。
テーマに心から惚れ込めるかなんです。
そこさえ芯が通れば、あとはどんな手法やジャンルでもOK。
まだテーマを烏さん自身が本気で信じてない気がしますね。
ペプシ桃太郎に腹立って、バカにしてやると思ってしまいました。(ネタ的に尾崎紅葉の鬼桃太郎が悪役で出てきて馬鹿な鬼のお供とドタバタ・・・で面白いかとも思ったんですが)
桃太郎と仲間に絞って考えていこうと思います。
ここで、小栗さんのインタビューで「手ごたえのないまま帰る、やったという感じのないまま帰る現場、でも出来上がったCMは刺激的で・・・」って話されてる部分や、桃太郎自体が、鬼退治に行くのが青年であったり子供であったり、鬼をことごとく切り殺したり改心させたりと、時代によって変容させられる姿を考えて。
桃太郎(小栗さん)の意図する行動(演技)と、それを見るお供や村人(監督)とでは感じ方が違うという方向で考えていこうと思います
なので、監督が言っておられた様に 主人公というか物語の語り手となるのは 今のところ 猿 となると思います(現状CMで、猿の旅立ちの理由が話されていないので)
で、今のところ桃太郎は、柳田国男先生が書いてるような「異種として生まれてた神の子が人間世界で除外されながら異郷に赴く英雄神話」と、鬼を退治した後に山の神になる話を膨らませて、再度 神としての地位を取り戻す為に、ただただ力を強める、証明する為に戦う者(実は人に対して被害が出ようと気にしない)ただ、鬼を退治するまではお供と利害が一致しているだけ。なので、感情移入できる対象ではないとしてしまう。
ここは、アスリートの現役引退の様に、ファンにすれば、現役続行を望む気持ちと、選手自身の線引きの仕方が違ったり その線引きを理解できない場面が似ているような感じで。
もっといえば、桃太郎はおとぎ話や映画の様な存在で、シンデレラやプリティーウーマンのパッピーエンドで観客(お供)の前では終わる(その後でシンデレラが継母を熱した鉄板の上で躍らしたとか、実業家とコールガールは実際の生活の中での違いで別れたとかまで描かれないように)
そう、銀河鉄道999の様に、哲郎(お供)少年から大人になるが、999やメーテルは青春のある時にだけ存在した者、ただ鉄道として宇宙を行き 乗った人たちのさまざまな万感の思いを受け止めるだけの存在。。。
それこそ、シェーンで変化しない者、むしろ主人公はお供や村人で感情移入の対象にすれば。
最初の新鮮さが、なんだったのかで、ただただ桃太郎の格好の良さや強さを・・・と思い直し
好きな格闘家が戦っている姿は憧れも、そのあとジム経営してるのには憧れない。その一瞬の姿が現実と違うから憧れたんじゃないかと思い考えてみました。
これで考えていこうと思います
桃太郎ですが
考えていくうちに、おとぎ話としては、一般的な英雄譚として括れるでしょうが
人物としては、これだけの様々な姿や真逆に近い姿で書かれているのを知るうちに
それを受け入れる とんでもない器の大きさをもった主人公なのか、それとも良い意味で内面が空っぽな人物なんだろうかと思ったんです。
自分の中の納得は大事です。
原作と離れすぎなければですけど。
(うんこ実写ガッチャマンでは、
俺の初恋の人白鳥のジュンが、1ミリも理解されてないキャラクターに改変されていたり。絶許)
烏さんは、漫画やアニメが好きなんだろうなあということが文面から伝わってきました。
実写の人間関係や世界観でやらないと、
実写にしては薄っぺらいキャラクターになりそうだ、
と警告しておきます。
実写と漫画アニメのキャラクターの違いは、
実在っぽいか架空っぽいかの違い。
リアル社会で揉まれないとこの違いは分からないので、
漫画アニメっぽいキャラばかり書く人は、
注意したほうがよいかと思います。
わざとやってるんならいいですけど、
大抵気づいてないので…
たとえば、桃太郎はどうしてカッコイイのか?
コスチュームや見た目や中の人とは関係なく、
エピソードとしてカッコイイことが、
脚本には求められます。
台詞でも行動でもよいので、
どういう文脈の場面で、
どういうことを彼がするから、
彼はカッコイイのかを考えてください。
抽象的なキャラ設定はどうでもいいです。
物語がはじまって15分以内にある、カッコイイエピソードを考えてください。