2015年07月28日

良くできたストーリーというのは、全てがテーマに従う

マッドマックス批評二つ目。
この映画のテーマは何だっただろう?

(以下ネタバレ)


「当てのない所へ冒険して死ぬぐらいなら、
当てのある危険へ飛び込むべきだ」だろうか。

ミッドポイントの反転の決断こそが、
このストーリーで、最もストーリーらしい所だからだ。
(まともに台詞劇のパートだし)

残念なことは、
このテーマに基づいて、全てが組み立てられていないことにある。

良くできたストーリーというのは、
全てがこのテーマに繋がるように組み立てられているものだ。


仮にこれをこの話のテーマだとするならば、
無謀にも砂漠をまっすぐ渡った英雄の伝説があって、
その白骨死体に遭遇するとか、
160日の冒険をして79日目に決断し直すとか、
あるいはあの砦のワルたちが無謀に真っ直ぐ行って死ぬとか、
この世界の地図を示して、どこにも他の町はなかったことを示すとか、
そのようなネタがあって然るべきだ。

そしてその要素はこのバトル映画には野暮な気がする。
だからストーリーとテーマの関係が希薄になる。
つまりこの映画は、こまけえこたあいいんだよ!
がテーマ(奥底にある思想)だとも言える。
だとするとだ。
それは価値があるのか?という話になってくる。

たしかにデジタル全盛のハリウッドに対して、
アナログの手法をやりきったことは称賛に値する。
しかし、それで?となってしまう。
確かにパーツパーツは分厚く面白いが、
それが何のためにあるの?ということを引いてみてしまう。
アナログ的な人間讃歌(狂気や醜さと対比しての)に、
なってるか?ちょっとぬるい気がする。
セックスがないからかなあ。
人間的な絆とか、正義とか、秩序とか、
そういうものもないし。
大体あの世界の白塗りの奴らは性欲がないのかねえ。
あのあと暴動が起こり、それをマックスが沈めれば良かったのかねえ。

こまけえこたあいいんだよ!がテーマだとしたら、
それはあまりにどうでもいいテーマだ。
その割には物凄く計算された絵作りと完璧な編集、
完璧に作られた世界観だからだ。
もっと斧で叩き割るような、アバウトな画面で良かったのではないか?
いや、脚本段階ではアバウトなぼんやりしたレベルだったのが、
他のスタッフが頑張りすぎて、
監督のアバウトな世界観をギリギリにチューンナップし過ぎたのではないか?
車田漫画をあまりにもちゃんと作りすぎてしまったかのような。

その辺の齟齬が、
この映画のストーリー上の欠陥だ。

優れた映画は、全てのパーツが、
テーマを語るために配置されている。
そのテーマを語るサブテーマがサブプロットになっている。
この映画のサブプロットは、
ボスへの狂信を捨てる白い人と、種を植える婆さんだ。
それぞれはとても面白いが、
テーマへ何かプラスになっているかというとそうでもない。
(「狂わずに人として秩序を見いだせ」というテーマだったら、
優秀なサブプロットになっただろう)

というわけで、
砂漠の楼閣のように、積んでも積んでもテーマが積み上がらなさそうだ。
元々マッドマックスなんて、単なるヒャッハー映画だ。
そう思えば正当な続編かも知れないが。
(逆に北斗の拳は、そこに愛というテーマを持ってきた傑作だとも言えるね)

ヒャッハー映画にしては、
全ての狂気がコントロール効きすぎている。
それがこの映画の魅力であり、実は最大の欠点だと思う。
(コントロール効きすぎているがゆえに、
ストーリーというテーマを求めたくなり、
しかしこれはヒャッハー映画だ→以下ループ)
posted by おおおかとしひこ at 12:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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