2015年07月29日

ゲーム発インスパイアは、物語になりにくい

どうして漫画「エアギア」は、
面白そうなのに面白くならないのだろう、
と調べていたら、ゲーム「ジェットセットラジオ」インスパイア作品だ、
ということが分かって筋が通った。

なるほどね。ここでも出てきたよ。「目的」だ。


一般に、ゲームの目的は、
ゲームから与えられる「ミッション」として存在する。
そういう世界でそういうことをするゲームだ、
と「定義」される。
(「ジェットセットラジオ」の場合、
町中を飛んだりスケートで走って、トリックを決めながら、
警官から逃げながらグラフィティをかけ!だ)


目的はアプリオリで、
プレイヤーはその是非とかを問わない。
目的が決まったあとの、
「行為」(障害越え)を楽しむことがゲームのメインだからだ。

つまり、ゲームとは、
物語に例えるならば、二幕だけを取り出したものなのだ。

二幕だけを、与えられる映像ではなく、
操作する体験として作ったものが、ゲームなのだ。

一幕は存在しない。ゲームの目的は「設定」されている。
三幕は存在することもある。長いエンディングがそれだ。


勿論、壮大なRPGのように長いオープニングで、
一幕がある場合もあるだろう。
しかしそれらは、目的の設定のために存在するだけだ。

映画の一幕は違う。
その幕引き、第一ターニングポイントで、
センタークエスチョンを提示し、
実質その解決が主人公の目的と設定するのだが、
ただ設定するのに30分も使うわけがない。

この一幕で最も大事なことは、
「主人公への感情移入」だ。
正確には感情移入の初期段階の完成だ。
すなわち、「この先この(特殊な)主人公が、
どうやってこの(特殊な)問題を解決するか、見てみたい」
を観客の中に育て上げることである。

映画は完全な受け身だから、これから与えられる物語に対して、
最大の興味をそそらなければならない。

ところが、ゲームにはその一幕は存在しない。
世界観と目的の説明はあるが、
主人公への感情移入はない。
何故なら、物語の主人公=他人ではなく、
解決するのはプレイヤー=自分だからだ。
むしろ感情移入は邪魔だ。
自分がどうするかだからだ。
(対比的に、物語は、「この主人公が」どうするかだ)


映画もゲームも、ある目的をクリアすること、
という大筋は似ているような気がする。
しかし、他人と自分、という全く違うものを、
同じ「主人公」という名前で分類してしまっているのである。
(もっとも、最近では主人公とはあまり言わず、
プレーヤーキャラクターという方がポピュラーかも)

違いは感情移入の有無だ。
他人が目的をもち、その他人の解決を見させられるときには、
感情移入がなければ、「自分のことのように」思えないのだ。
だから感情移入は、映画の魔法の最大の秘密のひとつだと思う。
(感情移入については相当書いてるので検索してください)


さて、エアギアが何故つまらなかったのかの解答がこれだ。

ゲームベースの世界観では、
その目的に感情移入はない。
これをベースにしてしまったがため、
主人公イッキに、感情移入出来ないのである。

初期の不良軍団への復讐までは、
一応の感情移入があった。
(レイプされた子へのケアがないのが、
感情移入を疎かにしていることの傍証だ。
感情移入とは、我々観客の感情で行われるからである)
しかしシムカとエアギアに出会ってから以降の感情移入が、
全くないのだ。
主人公の空疎化は少年漫画に最も起こりがちな欠点だが、
それは、彼の目的への感情移入が途切れ、
大きなストーリーに呑み込まれていくだけになるからだ。
主人公はその世界へのリアクション役にしかならず、
ほとんど中継実況役になってしまう。

物語とは、問題の主体的解決だ。
しかもそこに感情移入を乗っける。
他人である主人公が、いつの間にか自分のように感じることだ。
だから面白いのだ。
(逆に言えば、ゲームには、他人を自分に感じる必要はない。
最初からプレーヤーは自分であり、他人は全て敵または味方だ。
それらに、感情移入することはない。たまにあるけど)


エアギアで街を自由に飛び回る、
ジェットセットラジオが提供した爽快感は、
大暮維人の卓越した筆力で作られたが、
我々は、主人公イッキに、感情移入出来なかった。

だから詰まらないのだ。

色んな敵役やレガリアとかなんとかトーナメントとか、
凄そうな要素が出てきても、いまひとつ滑っているのは、
「ブッ殺!」が異常に寒いのは、
イッキに感情移入出来ないからである。
それは、イッキの目的が曖昧だからだ。
重ねて言うが、イッキは壮大にうねる世界の傍観者だ。
キン肉マンにおけるジェロニモの位置だ。
だから面白くないのだ。

ゲームにおける目的と、
物語における目的は、
形式上とても似ているように見えるが、真逆の性質を持っている。

その混同が、エアギアの詰まらない原因だ。

「シムカへの恋心でエアギアを極める」にしなかったのは何故か。
多分書く力がなかったのだろう。

自分の例になるけど、ドラマ小次郎は姫子への恋心だけで、
ずっと引っ張ったよ?
勿論その下に、忍びとは、という下敷きがあるのだけど。
何度か書いているが、小次郎への真の感情移入が完成するのは、
5話のラスト、「本当に人が死んでいくんだ」だ。
このような感情移入がイッキにあったか?

小便漏らした冒頭しかなかったのでは?



ゲームっぽい、と僕が思うのは、
だから、感情移入がなくて、
設定だけを出してきてそれが絡むものだ。
なんか他人事で嘘っぽいのだ。
傷ついたり汗をかいたり現実がうまくいかなかったり、
喜んだりやらなきゃいけないことをやる、人間に思えないとき、
それはゲームっぽいのではないだろうか。

と、ここまで書いて、北斗の拳連載開始あたりから、
毎号ジャンプを買って80年代黄金期を過ごした僕が、
ジャンプを買わなくなった理由を思い出した。
「遊戯王」が嫌いだったのだ。
ゲームっぽかったからだ。
その違和感が、四半世紀たって言葉になったか。


現実世界をベースにせず、
ゲーム世界をベースに物語を書くことは危険だ。
感情移入を置いてきてしまう。
ゲームは自分のこと、物語は他人のこと、
そして物語は他人事をまるで自分のことのように夢中になること。

これを自覚するなら、ゲーム世界をベースにしてもいいかもだ。
バイオハザードが上手くいったのは、
殺られたら死ぬ、という分かりやすい感情移入だったからかもだ。
(ゲームも映画も未見ですが)

僕がラノベに馴染めないのも、そこかも知れない。
(逆にウィザードリィの小説「隣り合わせの灰と青春」は夢中で読んだなあ)


その目的はとりあえずそういうものだから、にしてプレイをはじめるのがゲーム。
確かにその目的はそうだ、本気でそれをやるんだ、と他人の話にこっちが身を乗り出すのが物語。

自分と他人。
この混同が、詰まらない脚本の根本原因かも知れないね。
posted by おおおかとしひこ at 10:50| Comment(2) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
その漫画はそちらのゲームの他にも映画「YAMAKASI」も参考にしてるところから見てもストーリーの要素がないのは分かります
まあ絵だけであそこまで続けられたのは凄いと思いますけど
Posted by kentya at 2015年07月30日 21:57
kentyaさま、コメントありがとうございます。

ヤマカシ、懐かしい。
今ならパルクールで検索すれば死ぬほど引っかかる、
ポピュラーなものになりましたねえ。

マガジン連載時は、ブッチャ当たりでもうドンケツ争いをやってた記憶があります。
コミックスさえ売れれば、マガジンは続ける方針だから。
(あひるの空も、同じタイプの作品。僕は詰まらないと思っている)
たとえ画集呼ばわりされてもコミックスさえ売れれば、
の原則が、週刊マンガをダメにした原因のひとつだと僕は思います。
一週に命を賭けるんだ、の読み捨て車田世代なので。

まるでDVDリリースなのに劇場公開の箔付けが欲しくて、
一週間だけ限定公開する映画みたいで気持ち悪い。

余談でしたね。
ヤマカシも、ストーリーなかったよなあ。
タクシーも、ストーリーなかったよなあ。
リュック・ベッソンって、初期の数本しか良くないよなあ。
(レオンも、ラストが気に食わないので凡作扱い。
ただしキャストは歴史に残る最高クラス。
これも絵重視だねえ)
いや待て、グランブルーもニキータも、
絵(シチュエーション)のほうがストーリー(テーマやストーリーライン)より勝ってないか?
Posted by 大岡俊彦 at 2015年07月31日 00:39
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