どうして漫画「エアギア」は、
面白そうなのに面白くならないのだろう、
と調べていたら、ゲーム「ジェットセットラジオ」インスパイア作品だ、
ということが分かって筋が通った。
なるほどね。ここでも出てきたよ。「目的」だ。
一般に、ゲームの目的は、
ゲームから与えられる「ミッション」として存在する。
そういう世界でそういうことをするゲームだ、
と「定義」される。
(「ジェットセットラジオ」の場合、
町中を飛んだりスケートで走って、トリックを決めながら、
警官から逃げながらグラフィティをかけ!だ)
目的はアプリオリで、
プレイヤーはその是非とかを問わない。
目的が決まったあとの、
「行為」(障害越え)を楽しむことがゲームのメインだからだ。
つまり、ゲームとは、
物語に例えるならば、二幕だけを取り出したものなのだ。
二幕だけを、与えられる映像ではなく、
操作する体験として作ったものが、ゲームなのだ。
一幕は存在しない。ゲームの目的は「設定」されている。
三幕は存在することもある。長いエンディングがそれだ。
勿論、壮大なRPGのように長いオープニングで、
一幕がある場合もあるだろう。
しかしそれらは、目的の設定のために存在するだけだ。
映画の一幕は違う。
その幕引き、第一ターニングポイントで、
センタークエスチョンを提示し、
実質その解決が主人公の目的と設定するのだが、
ただ設定するのに30分も使うわけがない。
この一幕で最も大事なことは、
「主人公への感情移入」だ。
正確には感情移入の初期段階の完成だ。
すなわち、「この先この(特殊な)主人公が、
どうやってこの(特殊な)問題を解決するか、見てみたい」
を観客の中に育て上げることである。
映画は完全な受け身だから、これから与えられる物語に対して、
最大の興味をそそらなければならない。
ところが、ゲームにはその一幕は存在しない。
世界観と目的の説明はあるが、
主人公への感情移入はない。
何故なら、物語の主人公=他人ではなく、
解決するのはプレイヤー=自分だからだ。
むしろ感情移入は邪魔だ。
自分がどうするかだからだ。
(対比的に、物語は、「この主人公が」どうするかだ)
映画もゲームも、ある目的をクリアすること、
という大筋は似ているような気がする。
しかし、他人と自分、という全く違うものを、
同じ「主人公」という名前で分類してしまっているのである。
(もっとも、最近では主人公とはあまり言わず、
プレーヤーキャラクターという方がポピュラーかも)
違いは感情移入の有無だ。
他人が目的をもち、その他人の解決を見させられるときには、
感情移入がなければ、「自分のことのように」思えないのだ。
だから感情移入は、映画の魔法の最大の秘密のひとつだと思う。
(感情移入については相当書いてるので検索してください)
さて、エアギアが何故つまらなかったのかの解答がこれだ。
ゲームベースの世界観では、
その目的に感情移入はない。
これをベースにしてしまったがため、
主人公イッキに、感情移入出来ないのである。
初期の不良軍団への復讐までは、
一応の感情移入があった。
(レイプされた子へのケアがないのが、
感情移入を疎かにしていることの傍証だ。
感情移入とは、我々観客の感情で行われるからである)
しかしシムカとエアギアに出会ってから以降の感情移入が、
全くないのだ。
主人公の空疎化は少年漫画に最も起こりがちな欠点だが、
それは、彼の目的への感情移入が途切れ、
大きなストーリーに呑み込まれていくだけになるからだ。
主人公はその世界へのリアクション役にしかならず、
ほとんど中継実況役になってしまう。
物語とは、問題の主体的解決だ。
しかもそこに感情移入を乗っける。
他人である主人公が、いつの間にか自分のように感じることだ。
だから面白いのだ。
(逆に言えば、ゲームには、他人を自分に感じる必要はない。
最初からプレーヤーは自分であり、他人は全て敵または味方だ。
それらに、感情移入することはない。たまにあるけど)
エアギアで街を自由に飛び回る、
ジェットセットラジオが提供した爽快感は、
大暮維人の卓越した筆力で作られたが、
我々は、主人公イッキに、感情移入出来なかった。
だから詰まらないのだ。
色んな敵役やレガリアとかなんとかトーナメントとか、
凄そうな要素が出てきても、いまひとつ滑っているのは、
「ブッ殺!」が異常に寒いのは、
イッキに感情移入出来ないからである。
それは、イッキの目的が曖昧だからだ。
重ねて言うが、イッキは壮大にうねる世界の傍観者だ。
キン肉マンにおけるジェロニモの位置だ。
だから面白くないのだ。
ゲームにおける目的と、
物語における目的は、
形式上とても似ているように見えるが、真逆の性質を持っている。
その混同が、エアギアの詰まらない原因だ。
「シムカへの恋心でエアギアを極める」にしなかったのは何故か。
多分書く力がなかったのだろう。
自分の例になるけど、ドラマ小次郎は姫子への恋心だけで、
ずっと引っ張ったよ?
勿論その下に、忍びとは、という下敷きがあるのだけど。
何度か書いているが、小次郎への真の感情移入が完成するのは、
5話のラスト、「本当に人が死んでいくんだ」だ。
このような感情移入がイッキにあったか?
小便漏らした冒頭しかなかったのでは?
ゲームっぽい、と僕が思うのは、
だから、感情移入がなくて、
設定だけを出してきてそれが絡むものだ。
なんか他人事で嘘っぽいのだ。
傷ついたり汗をかいたり現実がうまくいかなかったり、
喜んだりやらなきゃいけないことをやる、人間に思えないとき、
それはゲームっぽいのではないだろうか。
と、ここまで書いて、北斗の拳連載開始あたりから、
毎号ジャンプを買って80年代黄金期を過ごした僕が、
ジャンプを買わなくなった理由を思い出した。
「遊戯王」が嫌いだったのだ。
ゲームっぽかったからだ。
その違和感が、四半世紀たって言葉になったか。
現実世界をベースにせず、
ゲーム世界をベースに物語を書くことは危険だ。
感情移入を置いてきてしまう。
ゲームは自分のこと、物語は他人のこと、
そして物語は他人事をまるで自分のことのように夢中になること。
これを自覚するなら、ゲーム世界をベースにしてもいいかもだ。
バイオハザードが上手くいったのは、
殺られたら死ぬ、という分かりやすい感情移入だったからかもだ。
(ゲームも映画も未見ですが)
僕がラノベに馴染めないのも、そこかも知れない。
(逆にウィザードリィの小説「隣り合わせの灰と青春」は夢中で読んだなあ)
その目的はとりあえずそういうものだから、にしてプレイをはじめるのがゲーム。
確かにその目的はそうだ、本気でそれをやるんだ、と他人の話にこっちが身を乗り出すのが物語。
自分と他人。
この混同が、詰まらない脚本の根本原因かも知れないね。
2015年07月29日
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まあ絵だけであそこまで続けられたのは凄いと思いますけど
ヤマカシ、懐かしい。
今ならパルクールで検索すれば死ぬほど引っかかる、
ポピュラーなものになりましたねえ。
マガジン連載時は、ブッチャ当たりでもうドンケツ争いをやってた記憶があります。
コミックスさえ売れれば、マガジンは続ける方針だから。
(あひるの空も、同じタイプの作品。僕は詰まらないと思っている)
たとえ画集呼ばわりされてもコミックスさえ売れれば、
の原則が、週刊マンガをダメにした原因のひとつだと僕は思います。
一週に命を賭けるんだ、の読み捨て車田世代なので。
まるでDVDリリースなのに劇場公開の箔付けが欲しくて、
一週間だけ限定公開する映画みたいで気持ち悪い。
余談でしたね。
ヤマカシも、ストーリーなかったよなあ。
タクシーも、ストーリーなかったよなあ。
リュック・ベッソンって、初期の数本しか良くないよなあ。
(レオンも、ラストが気に食わないので凡作扱い。
ただしキャストは歴史に残る最高クラス。
これも絵重視だねえ)
いや待て、グランブルーもニキータも、
絵(シチュエーション)のほうがストーリー(テーマやストーリーライン)より勝ってないか?