これは頻繁に起こる、
詰まらない脚本の欠陥である。
何故それをしなければならないのか、そこに同調出来ず、
話が滑っていく。
僕は幼稚園の頃、
何故お遊戯をしなければならないのか分からなかった。
分からなかったので、
皆と同じように笑顔になって、
手足をばたつかせることを、ずっとボイコットしていた。
ボイコットは僕目線だが、他人目線からすれば微動だにしない子だ。
先生から見れば扱いにくいガキだったろうし、
周囲の子からすればノリの悪いやつだったろう。
今俺がタイムスリップ出来たら、
彼にこう言える。
「世界を変える手段を学ぶためだ」と。
その主人公が、どういう「納得」で、
その目的を実行しようとしているのか。
ここをちゃんと作っているだろうか。
ダメな脚本はそれが曖昧か、伝わってこない。
(恥ずかしくて作者が遠慮していることも含む)
まず、「主人公なりの納得」が必要だ。
(たとえ自分勝手だとしてもだ)
大抵の実行にはリスクがある。
そのリスクを越えたリターン、
結果得たいものが彼にあるから、
彼はその行動をする。
極端な例を。
何故彼は麻薬をするのか。
気持ちいいからだ。
脳を破壊することで、
ノーマルな脳の状態より気持ちいいから麻薬をするのである。
それがその人のなかで完結していれば、矛盾もない。
むしろ座している理由などない。
行動あるのみだ。喉から手が出るほど、それは欲しいものなのだ。
犯罪を犯してでも。
それを動機という。
物語における登場人物は、
すべからく動機と、具体的な実現目標、すなわち目的を持っている。
それが共感しがたく、反社会的であるかどうかとは、
とりあえず関係なくだ。
(もし「全員」が社会的道徳的ならば、それは「やさしい世界」になってしまう。
一言で言えばぬるい)
動機はその人のなかで全く矛盾しない、
当然のもので、
しかも欲しくて欲しくてしょうがないように設定するとよい。
リスクを犯すからである。
そして、他人のリスクこそ見世物だ。
感情移入とは、その動機に、
我々観客が心底その通りだと思うことを言う。
例え麻薬をするという自己破滅的、反社会的動機であっても、
感情移入させることは可能だ。
その最悪な映画に、「レクイエムフォードリーム」がある。
心底その通りだと感情移入するからこそ、
ラストの破滅に、我々の精神は壊滅的ダメージを受ける。
バッドエンドの最高峰映画として勉強の為に見るべきだ(R18クラス)。
この映画が最悪なのは、
単なるグロ描写とかの見た目で最悪にするのではなく、
感情移入を伴って最悪の結末にするところである。
グロ描写だけなら他にたくさんある。
しかしこの映画は、精神に来る。
ただのバッドエンドではなく、
感情移入してからの叩き落としだからだ。
それに耐えうる精神力の人だけ、見るといいだろう。
感情移入はどのような動機にでも可能だという、
映画の魔法の一端を見ることができる。
さて、感情移入のプロセスは過去記事を検索してもらうとして、
その人物も、それをそうしたいと心底思い、
観客も、それはその通りだと思うように、
つくるべきである。
何故それをしなければならないのか?と観客が退屈する瞬間は、
その人物と観客の精神的な紐帯、
感情移入が途切れてしまっている証拠だ。
ゲームは感情移入ではない。
何故それをしなければならないのか?を、
問うことはない。
何故将棋が相手の王を取らなければならないか、に理由はない。
「そういうルールの下で楽しむ」ことになっているからだ。
だから、ゲームは映画にならない。
映画とは、その目的に感情移入させる、第一幕からはじめるからである。
相手の王を取らなければならないことに、
凄く感情移入出来れば将棋は映画になる。
多くのゲームが題材の映画では、
ゲームは目的ではなく手段であることで、
主人公の目的を別につくるものだ。
つまり、ジェットセットラジオの目的、
街を駆け回り、グラフィティを描いたりトリックを決めたりすることは、
映画の目的にならない。
主人公には別の目的があり、爆走は手段であるパターンが最もあり得る。
(ジェットセットラジオの目的に、誰もが感情移入出来るように作れば、
その限りではない)
同様に、エアギアは、目的が定かでなく、
空の王になるという取って付けた動機にも感情移入出来ない。
だからあれだけの画力にも関わらず、
ストーリーは滑りまくっている。
目的は何か?動機は何か?
そこに我々はどれぐらい感情移入しているか?
ほとんどそれが、映画である。
2015年07月29日
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