2015年07月30日

地図を読む人、読めない人

前記事を書いていてふと思ったこと。

ナビばかり見ていて、最近の人は地図を広げてるのかなあ。
街の案内図の地図を、ちゃんと見てるかなあ。
特に女は地図を読めないしなあ。

地図を見ることと、
全体のプロットやフェーズを把握しながら書くことは、
似ている。


間違った地図の読み方。
○○を目印に左、△△を右に。

これは自分を座標軸の中心におき、
目の前に何か現れたら記憶通りに反応していくやり方だ。

記憶に残しやすい簡便なやり方だが、
迷ったり間違ったりしたら、
永遠に正規ルートに戻れないという欠点がある。
女はこういう地図の見方をするらしい。
(全ての女性ではないと思いたい)


正しい地図の見方はこうだ。
全体の構造は大体こうなっていて、
自分はここからここまで行く。
途中の曲がり角は○○と△△が目印。

座標軸はあくまで頭の中の地図が中心。
自分はその中を移動する点に過ぎないと考える。

○○や△△を見つけられなかったとしても、
あるいは間違ったとしても、
方角と現在地が分かってれば大体の位置にはたどり着ける。
一本筋を間違えてたのか、とか、
角をひとつ行きすぎてた、などと、
正規ルートと現行ルートの差分を把握し、
正規ルートへの復帰を相対的に出来る。

地図が手元にあれば更に正確になる。
大まかな構造さえ頭に入れておけば、
今このへんで、次に出てくるのは○○のはずで、
と、現在地と未来予想の二つを同時に見れる。
標識や他の目に見えているものと、
地図上の現在地を見比べ、○○が見えなくとも現在地が正しいことを確認出来る。
今ここだから次十字路の筈だと思いながら進み、
十字路が出ればまっすぐ進むことが出来る。
頭の中に方角と地図があり、自分はその中を進む点だと思っているからだ。


大抵の男性ならば、
そんなの当たり前ではないかと思うだろう。

ところが、脚本を書くときに限って、
途中で迷子になってしまうのは何故だい?


ストーリーにとって、
プロットは地図だ。
そんなことは100回は聞いたことだろう。
それは、プロットをナビのようではなく、
地図と自分の位置関係のように使えということだ。
「次、喧嘩」という点の指示ではなく、
「出会って付き合って喧嘩して仲直りする、
という一連の流れの中の喧嘩を次にする。
なお、付き合いはじめの伏線をここで消化、
この喧嘩の次はしばらく冷戦になり、
あの伏線が誤解だったと分かることで和解への流れへ、
従ってここでは誤解しまくるべきだ。
喧嘩終わりは冷戦へ繋ぐ」
という地図と現在地を確認してから、
喧嘩のシーンを書くのである。

逆に、プロットが練れていない場合は、
地図の役に立たないのだ。
(どれくらい練れば地図としてのプロットたりえるかは、経験則だ。
自分で地図を書き、それを最後まで踏破した経験がないと、
地図の十分不十分は判断できない)


迷子の原因と対策は、地図と正規ルートと同じだ。

「地図が面白くないから別ルートで行こうと思い、脇道に入った」
→地図を面白くしてからやり直す。または、面白くない地図だと覚悟して、
正規ルートを一端目的地までゴールする。完結さえ出来れば、
もう一度地図を練り直すリライトに進める。

「地図の現在地を見失った」
→全体で今どこらへんかを把握して、こちらへ向かえば正規ルートだという方向へ進む。
どこかで正規ルートに復帰できる。
リライト時、迷ったところを正規ルートに書き換える。
あるいは、どこから迷路に入ったのか分かれば、そこまで一端戻って、
正規ルートに復帰するほうが藪のなかを進むより楽かも知れない。

「地図をなくした」
→アウト、いや、でも待て。
記憶のなかでおおまかな地図はあるだろう。
その筋を一度別紙に書き直してみよう。
文章じゃなくて図でもいい。
目的地と現在地を結ぶ正規ルートと、周辺の構造さえ頭に入ってれば、
最悪なんとかなる。

「脇道にそれたが、こちらの方が良さそうで、地図的にもたどり着けそうなので、
このまま脇道を進むべきか?」
→素晴らしい。頭に地図が入っているからこその、
別解を見つけたということだ。
このまま進みたまえ。もし途中で迷子になったら、
上の対処法をとりたまえ。

迷子の原因のひとつは、正規ルートじゃ詰まらなそうだから、
面白そうなこっちへ行ってみようよ、だ。
正規ルートの詰まらない予感に耐えられない気持ちが、
面白い脇道を発見するのである。
これはとてもいい傾向だ。
欠点の自覚は客観的だからだ。
しかし、正規ルートのプレッシャーに耐えられない逃避行動の可能性もある。
その脇道から目的地までの地図を引き直すことは、
最低限やったほうがいい。
それをやっても尚脇道に入りたがるのだとしたら、
あなたは地図を見て正規ルートで目的地にたどり着くという、
「地図を使う」行為が出来ないだけかも知れない。


ここを見ている女性の方がどれくらいいるかは分からない。
しかし、一般的に、女は地図を読めないし、使えない。
一般的に、自分中心座標系であり、
地図座標に自分を置くという地図中心座標が苦手だ。
だからと言って、女が地図を一生読めないとも限らない。
地図の使い方をマスターすればいいだけの話だ。

そもそもプロットと執筆の関係は、
地図を読める男性が作った理論だ。
地図を読めない女(男も)のプロットは、別物になるかもね。
地図を読めない人は、二通りのやり方がある。
男のように地図を使えるようになるか、
女にしか出来ない地図を作るかである。
(後者が危険なのは、自分中心座標系なので、
独りよがりになりやすいこと。少女漫画によくあるよね。
有り体に言えば、ご都合主義が生まれやすい)

僕は女性差別主義者ではないが、
女が地図を読めないのは経験上ほんとだ。
だからと言って差別はしない。
長所を使って別のやり方を探るか、
苦手でもマスターすれば済むことだ。

ただ、世の中の「プロットとは地図である」というときに、
言外にこのようなことが含まれていると知っておけばいいだけだ。


あなたは執筆途中、迷子になりやすいか?
現実ではどうか?
相関関係が強いなら、地図を見て道を進む技能を身につけよう。

相関関係が弱いなら、どちらかにまだ慣れてないだけだ。
posted by おおおかとしひこ at 10:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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