2015年07月31日

削るぐらいが丁度いい

なんて、昔から脚本の世界では言われてきた。
ほんとかなあ。

僕はある意味間違いだと思っている。


「削るほうが足りないのを補うより楽だから」
というのがどうやらその根拠らしい。

本当にそうかな。

単に削るだけで話が成立してしまうのなら、
それは最初からいらなかった部分であり、
よく練らずに書いた適当な脚本だった、
というだけではないか。
もっとも、現場で100%練られた素晴らしい脚本ばかりとは限らないから、
水っぽい脚本をどうにかする用の、
現実問題での経験則のような気はする。

僕なら、理想論かも知れないが、
プロットで足し引きをすべきだと思う。
重要な要素は何か、脇の要素は何か、
つまりこの話の骨格はなんだ、
ということを突き詰め、
それを語るに必要十分な骨格要素は何か、
を徹底的に取捨選択して凝縮しておかないと、
どうやったって詰まらない、練りの足りない脚本になると思うのだ。

ちょっと多目に書いてみなよ、多ければ削るからさ、
というのは、相手を舐めたアドバイスだと思ったほうがいい。


もしあなたがリライト経験が豊富ならば、
一行やワンシーンを削って、全体が痩せていく一方ならば、
いっそブロックごと書き直して、
要素を減らした上での濃密な脚本に書き直したほうが、
いいものが作れることは知っているかもしれない。

落とすならまるごと落として新しく構築し直したほうが、
継ぎ接ぎの嘘でがんじがらめになるよりも、
あとあと面白い話になるのは経験的に間違いない。

10の要素から3を削って7に減らすより、
2だけ残して5を作ったほうが、
絶対面白い7が作れる。

何故かは上手く説明できない。
足跡がつきまくった汚い雪より、
全体が新雪のほうが気持ちいいという感じに似ている。


多分、この都市伝説は、
「(書いた本人ではない)他人が削る指示が出せるから、楽」
という意味だと思うのだ。

削るというオペレーションをしたことで、
脚本に手を入れた気になっているだけだと思う。


試しに。
原作風魔の小次郎の、
赤星の矢を射るまでを、
削るだけで22枚のシナリオに出来るだろうか。

答え(のひとつ)は、僕がやった第一話だ。
ただ削るというオペレーションだけでは、ああはいかない。

蘭子と小次郎のドツキ漫才会話は原作にない。(なのにあったような気になる)
校門で拐われそうになる姫子の一連もない。(なのにあったような気になる)
なでしこ少林サッカーもない。(なのにあったような気になる)
シャワーシーンも覗きもない。(蘭子の鞭で逆さ吊りはあるが場面が違う)

ただ単に足しているのではない。
落としたところの本質を掬い上げて、
濾過してから新しいものに作り直しているのだ。

そんなことを全編に渡って丁寧にやってるからこそ、
ドラマ風魔の脚本はとてもいい仕事をしているのである。



ほんとに削って切り貼りするだけ?
それは、楽したいから言ってるだけでしょ?
楽して作ったものが、面白いわけないじゃん。
(苦労したからといって面白いものが出来る訳でもない)
posted by おおおかとしひこ at 02:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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