日本語の物語は、三人称がデフォルトなのだろうか、
一人称がデフォルトなのだろうか。
僕は統計を取ったわけではない。
小説は一人称が圧倒的に多いような気がする。
しかし映画では、三人称が100%だ。
(映画でなく映像に巾を広げれば、例外はある。
ハメ撮りやアイドルとデートするカメラ目線もの、
最近増えてるクソ長尺CMのような、
三人称映像にその人のナレーションをポエムのように乗っける、
ポエムタイプは実質一人称形式だ。例:早稲田アカデミー)
一人称の感情移入と、三人称の感情移入は、全く違う。
まず一人称から。
僕は、一人称形式には、三人称形式で言う感情移入はないと考えている。
代わりにあるのは、視線の共有である。
一人称小説を例に。
主人公「私」の語りで全てが語られ、説明される。
私の気持ちや内面も説明される。
つまり、「私がした体験を、私の解釈で語る」ことが、
一人称小説である。
これから起こる出来事を、読者は「私の目線」で体験するのだ。
私の感情と読者の感情は一致するだろうか。
するのが理想だが、しなくてもよい。
もし終始一致するのならば、
内面描写は不要だからだ。
内面の感情描写を含めて、
主人公の視点を「味わう」のが、一人称形式で言う感情移入、
僕が言う視線の共有だと思う。
小説の力点は、起こった出来事よりも、
時に私の内面を豊かに書くことが出来る。
いわば妄想主人公でも話がもつ。
読者は、私の視線(考え方、感じ方、感情)を共有する。
読者は必ずしも私と感情を一致させなくてよい。
ははあこの人はこう感じるんだね、面白いね、
でいいと思う。
だから「私」の感情は、ある意味説明だ。
説明しないと存在しないという意味で、
読者と私の感情は分離していてもいいのだ。
勿論、後半になれば「私がどれだけ悲嘆にくれたか、
ここまで読んだ読者諸兄は分かるだろう」などと、
省略するやり方もある。
視線の共有が進めば、自ずと言わんとすることも分かるようになってくるからだ。
最初はいわば「無理矢理視線を共有させる」ということからはじめて、
どこかで共有から感情の一致に至るのが、
一人称形式の感情移入だと僕は考えている。
映像で分かりやすいのはハメ撮りだ。
カメラマン(AV男優とか監督)の視点を共有するのだ。
ハメ撮りでペチャクチャ喋るのは厳禁だ。
第三者がいるような気がして、俺と女優の二人きりの気分にはなりにくいからだ。
男優の感情の一人称はいらない。
それは絵(つまり視線)とプレイでなんとなく分かるからだ。
ハメ撮りでは、オーソドックスなプレイが重要だ。
あまりにも変態プレイは男優の喋り同様、
第三者の存在を感じすぎる。
小説は私の内面を語ることで、視線の共有をする。
ハメ撮りはカメラが撮る絵とプレイで、視線の共有をする。
どちらも、私から見た私の体験を共有することが、
最大の楽しみだ。
「私」の感情と読者の感情が後半シンクロしてくるのは、
「私」の内面をある程度理解したからだ。
理解したから、予想ができて、その通りになれば、
「私」と読者の感情が一致する。
これが一人称の感情移入の仕組みである。
情も移るだろう。
これは、三人称の感情移入の仕組みとは、全く異なる。
三人称に「私」はいない。
いるのは、全員他人である。
僕はよく猿山にたとえる。猿が沢山目の前にいるだけだ。
沢山の他人の一人にカメラがフォーカスする。
その猿をアップにすることで、
その猿のやっていることや周囲との関係で、
その猿の抱えた事情、その時々の感情、
あるいはその猿の願望などが、
行動やリアクションから、だんだん分かってくる。
分かるのはあくまで、我々観客が「察する」ことでだ。
(思い出すべきだ。映画は元々サイレントから出発した。
台詞や言葉は映画にとって、二次的獲得物である)
察する為には、客観的な情報が沢山必要だ。
こういうシチュエーションのこういう文脈で、
こういう行動を取るからには、
この人はこのような気持ちであると、我々観客が推理するのである。
推理といっても難しいことではない。
涙を流せば悲しいのだろうと推理する、
笑顔なら嬉しかったり楽しかったのだろうと推理するのは、
子供でも出来る。
さらに、上手くやれば、
顔で笑ってはいるが、この人は泣いているのだ、と、
内面と外面の差を推理させることも可能だ(風魔6話霧の中)。
感情移入は、その人の気持ちが完璧に分かった時に起こる。
ついでに、その人の次の気持ちも予測でき、
その通りになったときに起こる。
つまりその人の気持ちと、完全に一体になったときに起こる。
さて、ここまでの議論で、まだ主人公の定義をしていない。
三人称は猿山だ。
沢山いる猿を観察するだけだ。
ただし、その中でいちばん注目し、
いちばん中心的に、最初から最後まで持続的に感情移入する猿のことを、
主人公と呼ぶだけだ。
(主人公が不在のものに、群像劇がある。
文字通り猿山の観察である。シムシティの高度なものにすぎない。
これは主人公という最も強い感情移入を放棄しているので、
ここでは映画に含めない)
つまり主人公の条件とは、
主人公っぽい感じでもなく、
ヒーローや正義感や優しさや特殊能力でもなく、
平凡で得意なこともないモラトリアムでもなく、
表面に表れた沢山の文脈の情報から、
最も感情が理解できて、
最も感情が予測できて、
最も感情をその人と、最も強く共有出来るものを言う。
観客はみんな現実で疲れている。
だから映画でスカッとしたい。
だから、出来るなら映画の中では、
スカッとする感情を共有したいのだ。
(二時間悩む感情を共有したい訳がない。
悩むのはあなたであり、観客がそれを望んで共有はしない)
だから主人公は、積極的で主体的だ。
人生では人はなかなかそうなれないからこそ、
積極的で主体的な人を羨ましく思い、
目立つ猿だから注目し、
その人の気持ちが理解できるからこそ、
その人の感情を共有し、
一緒に頑張って世界を変えていこうと、心のなかで思うのだ。
これが三人称の感情移入の仕組みである。
僕は、一人称と三人称で、
主人公、感情移入という共通の言葉を使うべきではないと考えている。
両者は別のメカニズムだからだ。
「私」、視点の共有、
主人公、感情移入、
と分けて考えるべきではないかと思っている。
(小説理論に詳しい訳ではないので、既にこういう議論がメジャーならごめんなさい)
もっとも、特に小説では、
厳密な一人称/三人称よりも、
両者が混じりあった変形型が主流だから、
それこそ混同されているのかも知れないが。
漫画や少女漫画は、一見三人称に見えているが、
一人称の要素も多い。心の声の表現があるからだ。
特に少女漫画では、ほとんど内面の声のページということすらある。
つまり一見三人称で、一人称との混在がはげしい。
ここで一人称と三人称にこれだけ拘るのは、
映画やドラマは、完全三人称形だからである。
(例外的にナレーションの使用があるが、
多くて10行だ。これは全体からすれば1/240
程度の分量だ)
三人称と一人称は、全然違う。
そして下手な脚本は、
一人称との混同を三人称に持ち込む。
作者の思い込みとか独りよがりとか、
葛藤を描いたとか、○○を描写したとか、○○を描きたかったとか、
主人公の気持ちが伝わってこないとかは、
全て一人称を三人称に持ち込む間違いから発生している、
と僕は考えている。
ああ、やっと根本的な事が書けた。
ここブックマークな。
2015年08月03日
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