2015年07月31日

五輪ロゴパクり問題は、今の業界の欠陥の象徴だ

大体佐野氏の代表作を見れば、
五輪ロゴが彼っぽくないのはすぐわかる。
にゃんまげ、auリスモ、グリーンダカラちゃんなど、
ポップでカワイイ系の代表作ばかりの氏が、
なぜあんな格調系のデザインをしたのだろう。


デザイナーのキャスティングの意図は明らかだ。
今の日本のいいところをデザインに反映させよう。
それはいい意味でも悪い意味でも、
マンガっぽいところだ。
ゆるキャラ的にいくかもうちょっと硬い線でいくかはチューニングだけど、
大きくはマンガポップを目指そう。
世界に発信できる日本らしさってこういうことじゃね?
ということ。
今の反映よりも、先を見据えたプレゼン、という意味でのデザイン。


それが、どうして、パクりまがいの、
氏の個性とは違うあんなことになってしまったのだろう。

今の業界は、
完成イメージの共有を既にあるものから探し、
こういうテイストでいきましょうと合意するまで、
次の段階に行けないことが多い。

手書きのラフやコンセプトという短い言葉ではなく、
テイストまで共有しないと先に進めなくなってしまっている。

CM業界ではビデオコンテという最悪の悪習がある。
既にあるCMや映画やPVなどから、
目標とするテイストを探し、
撮影する前からテイスト参考ビデオを作ってしまう。
最悪の場合、カット割りすら同じものを探して編集する。

「そうじゃないと仕上がりが想像できない」という、
バカなスポンサーを騙す、最初はハッタリだった。
しかしバカに輪がかかり、
「最初に見せてもらったビデオと、仕上がったものが違う」ことが、
問題視されることになりはじめた。
いやいやいや、もの作りをする上で新しいことをしたのに、
「過去に誰かがやったアレに似てない」ことが減点対象になるのだ。

これは本末転倒もいいところだ。

更にバカに輪がかかり、
制作者たちも「○○と△△のビジュアルを組み合わせたビデオコンテを作ろう」
なんてことを企画性だと思いだす。
なんといっても、ビデオコンテが大勢を占めてくると、
それなしには承認過程が進まなくなるから、
企画の中身を考える時間より、
ビデオコンテをつくる時間が長くなってしまうからだ。
「誰も見たことのない、全く新しいことをしよう!(どうなるか分からないけど)」
よりも、
「誰かが過去にやった素晴らしい仕事を掛け合わせよう」
になり、
「有名な奴よりも、知られていない奴にしよう」
になり、
「マイナーだけどすげえいい奴知ってる?」
となる。
もはやクリエイターではなく、テイストハンターだ。

これが、新しい映像がなかなか生まれず、
停滞している原因だ。
構造的原因だ。

最たるバカは、ペプシ桃太郎だ。
落下の王国とタイタンの戦いとマスターオブコマンダーを組み合わせ、
ロックユーを低音ブーストでかければ、
概ね仕上がりのものになる。
(鬼のアップは巨神兵ね。桃太郎批判ではパクり元はもっと細かく指摘した)

新しいものは何も作っていない。
過去のものを組み合わせただけだ。

ついでにもうひとつクソCMがあって、
嵐が出演した某ゲーム会社の企業広告は、
Vフォーベンデッタとトランスフォーマーとガンツを組み合わせれば、
作れる。(ついでにむき出しの骨組みに顔だけついてるビジュアルは、ロボコップ)
ちなみに桃太郎と同じ監督だ。


撮影前にビデオコンテをつくり、
これと全く同じテイストで作ろうと打合せする。バカだ。
しかもビデオコンテと違ったら減点されるという。
みんなバカじゃないだろうか。
こんなやり方で、新しいものが作れる訳がない。



さて、五輪ロゴパクり。

現在のCMの最悪の作り方のように、
デザインのテイストを沢山並べて、
複数の人たちの共通認識をはかったのではないだろうか。
そのなかで、
例えばJリーグみたいなシンプルな感じとか、
それじゃ暗いからゴールドを差し色に入れてゴージャスに
(福島復興のリビルドジャパンのデザイン)とか、
格調高いほうがいいから、
佐野氏のカワイイテイストではなく、
フランスのあの劇場のロゴみたいなの、
という話になった筈だ。

バカの集まりが一端共通認識をもったら、
反省しないことは、
戦争がなぜ止まらなかったかと原理は似ていると思う。
その方向に走り出すことは、正しいのか?
という客観性を失う。
(正確に言うと、少数の賢人が警告しても、
集団心理がはじく。最大多数の最大幸福の名目の下に。
そもそも民主主義は、市民教育と両輪でなければならない。
そうでなければ集団心理に流される。ナチスドイツのようにだ。
この場合のヒトラーとは、「あのデザインのテイスト」だ)


既にあるテイストしか想像できない。
新しいテイストを提出しても、既にあるもののなかにないから、
新しさや良さを判断できない。

そういうバカたちが集団で上で権力を談合しあっている限り、
既にあるテイストを組み合わせるパッチワーカーたちが、
プレゼンして仕事を取り、
過去の(ゼロから作った)偉大なる遺産を食い潰して行くだろう。

既にCM業界はそうだ。
ドラマもそうなりかかり、立ち直ろうという試みは見られる。
(が、話題になるのは原作つきばかり)
映画も原作つきばかり。
マンガはオリジナルを作ろうと必死だ。
小説はどうかな。詳しくないのでよく分からない。
音楽はあきらめムード?

僕はそんな談合じゃないところから突破口を見いだして、
本当に面白いオリジナルをなんとか生み出そうとしている。
そのうちどこかに潰されるかも知れないが。
(少なくともCMでは潰されてばかりだ)


さて、佐野氏は本当にあんなデザインをやりたかったのかなあ。
集団心理の合意を押しつけられて、
まとめ役に徹したんじゃないかなあ。
それがパクりを指摘されたら、
首を切られるピエロ、トカゲの尻尾役なんじゃないかなあ。

これは構造的問題だと僕は思う。

人の心の問題だとも思う。
(出来ればこれを題材にして話を作りたいが今の僕には実力が足りない)

どうせどこかで釈明会見のみそぎをするか、
うやむやに握りつぶすでしょ?
原発の水蒸気爆発みたいにさ。
人の集団の心の闇は深いね。



新しい内容がよく分からない人が決定権を持っていること。
新しい内容がよく分かってる人がその人と直接話して、
新しい内容を合意できないこと。

それが原因の根本である。

ついでに、途中降板が最後まで責任を持たなかったと謗られる、村社会構造もね。
posted by おおおかとしひこ at 11:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック